食べることが好き。でも、食べず嫌いなところもある私は、この夏に鰻を食べた。今まで、食べたくないと興味を示さなかったけれど、美味しかった。

自分の人生を遡ると、幼稚園児の頃から「食べること」が苦手だった。苦手というより拒否していたといったほうが正しい。

周りの子は皆、美味しいと頬張りながら食べて完食していた。そのなかで私は食べ物を拒絶するようにして食べなかったし、家庭からお弁当を持参してくる日があって、ちゃんと食べたかどうかを先生に確認してもらわなければいけなかったのだが、食べ残しのない空っぽの容器を持って先生に見せに行くことが、私には苦痛で仕方なかった。

だから、食べ残したことが分からないように、おかずを入れていたカップの下へ、こっそり残した食べ物を隠した。それでも私が食べないというのは先生には全部、お見通しで、ちゃんと全部食べるように注意されて、その作戦は失敗に終わった。

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そうして、この食べたくないという拒絶は小学生になっても続いていたし、それを克服できたのは毎日お弁当生活だった中学生のときだった。自分の好きなものを食べられるのだと思った私は、どこか解放されたような気分になっていたのだ。

それからは、今までの「ほとんど食べない」という状態から開き直ったかのように、パクパクと食べ始めた。食に興味を持ったのだ。

今思うと、食べることが苦痛で仕方なかった自分が、自分じゃないくらい嘘のように不思議に思えてくる。だから実はもともと食べることに対しての執着が人よりもすごくあったからこそ、食べるという営みに対して拒絶したりしていたのかもしれない。

こんな自分にとっての食の歴史を辿ると、本当は食べるために生まれてきたのではないかというくらい、食へのこだわりが強いことに気づいたのだ。食べるにしても食べないにしても、そういうこだわりが強いからこそ、実は食べることが好きで得意だったのだ。

得意というと、大げさかもしれないけれど、「好き」と「得意」の境目に私はいるのだと思う。それは食に限らず、何かを必死で続けたり、人を好きになったり、初めは「好き」から始まったこと、始めたことが自分のなかで「得意」なこととして育まれていく。だからこそ私は好きなことを得意かもしれないと気づく瞬間が、最も心地よく感じられる。
生きていくうえで必要なこと=食べるという営みもそうであって、五感をフル活用して想像しながら人と話す。それが私は好きで得意なのだ。

だからこそ、まずは「好き」になることが大事で、それを「得意」なことへ育んでいく力をもっと身に着けたいとも考えている。

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逆に苦手なものを克服して得意だと心に誓えるまで、導いていく。そういう過程を考えることも、得意なことの一つである。

いま自分が置かれた状況をどう変えるか、維持するか。それってすごく難しいし、自分は孤独だと悲観的に思ってしまうとゴールまではたどり着けなくなる。そんな悲観的な想いを捨てきることはできないときもあるけれど、得意だから大丈夫だと自分に言い聞かせて、誰も見たことのない私にしか見えない景色を見てみたいなんて思ったりする。

そうやって見えた景色を見渡した瞬間、ようやく「好き」と「得意」の両方を知って、自分を認めてあげることができる。そう強く思う今はまだ自己分析の途中にいるみたいな感覚である。

今まで得意なことよりも苦手なことのほうが多かった私が、こう考えるのにはいろいろと理由がある。その理由は自分のなかでこっそり温めていようと思う。

これ得意ですよ!と手を挙げて言える瞬間が増えるまで、苦手なことは忘れて突っ走っていこうと、私は決めた。