学びは繋がるものだという感覚がずっとある。

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私は今、大学でフランス語、スワヒリ語、サンスクリット語の授業を取っている。
フランス語は高校時代に一度触れていて馴染みがあったので選んだ。スワヒリ語を勉強していると言うと、珍しいねと驚かれることも多い。サンスクリット語にいたっては、(そんな役に立たなそうなものを)なんで勉強するのとまで言われる。

確かにフランス語は将来を考えたときに話せた方が“得”であろう。公用語としてフランス語を使っている国も多いし、国際機関でも広く話されている。

しかし、スワヒリ語やサンスクリット語となると、途端にその汎用性を指摘される。「いつ使うのそれ」「どこ目指してるの」など、散々な言われようだった。

これまでは、経済学、ビジネスやデータサイエンスなど、何となく“メジャー”な学問を選んでいたせいで、こんなふうに言われる分野が存在することに気づかなかった。
これらの授業を履修して、学んでいるものの種類で優劣をつけられたり、色眼鏡で見られたり、勝手にカテゴライズされたりということは、分野によっては多いのだな、と感じた。

しかし、そんな外野の声が気にならないくらい、言語の授業は面白かった。まず、発音が難しい。フランス語の「r」の発音は、はじめどれだけやっても上達しなくて、不向きなのかと思った。しかし、真摯に向き合ってくれた先生のおかげでクリアした。

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スワヒリ語に関しては、読みは(ローマ字に近いので)問題ないのだが、名詞の種類によってその数え方や形容詞の形が変わるのが難しかった。これも、同じクラスのメンバーと切磋琢磨しながらなんとか掴んできたように思う。

サンスクリット語は、単語の繋がりで音が変化したものを見つけて、文章から単語を抜き出すところがそもそも難しい。変化した語を元に戻して辞書をひける状態に持って行くまでに数ヶ月かかった。ただ、これも友達と唸りながら練習問題を解いて、やっとその輪郭を理解していった。

学びを進めていくと、自分がもともと知っていた言葉や物語が、ここにも繋がっていたのか!あそこにも繋がっていたのか!と驚くことがある。
例えば、今年のはじめにマレーシアへ行ったときによく使ってたマレー語「selamat pagi(おはよう)」とスワヒリ語の「salama(平和、安全)」となんだか似ていると思っていたら、両者はアラビア語を元にして繋がっていたと分かった。

別の所で知り合った友達が、もともと交流があったと知ったときのような感覚。
むずむずするような、わくわくするような、そしてちょっと嬉しいあの感じ。

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こうした繋がる学びを通して、確実に自分の世界の見方は広がっている。
木が伸びて、枝葉をつけて空へ向かっていくように、自分の中で何かが積み上がって広がって視界が開けていくような気分だ。

一見無駄なように見えても、将来役に立たないとか使わないとか言われても、こうやって積み上げた学びの中には、きらりと光る粒があるように思う。そして、それがあるからこそ、世界を色んな角度から考えて、感じて、愛せるのだと思う。

学びに終わりはない。
今この手で掴んでいるものが、この先私とどう関わっていくのかも未知だ。
でも、だからこそ追いかけていきたい。足を止めずに走って行きたい。
きっと、この学びの先にあるものは、はっとするような絶景だ。