今年の二月、博物館に展示されていた人骨標本の前で、私は夫に「骨盤の形の性差」を語っていた。
例えば、妊娠経験のある女性の多くで見られる特徴として、骨盤のお椀のような形を作っている「寛骨」の特定の箇所に、まるで骨が抉れたような痕がある。男性や妊娠経験のない女性の骨にはこの抉れはなく、妊娠・出産を経る中で骨盤に負荷がかかることで発生するのだろう。
突然オタク口調で語り出す妻にどん引きしているかと思った夫は、意外と面白そうに聞いていた。
◎ ◎
私はというと、自分で語っているくせに怖くなった。何故なら当時私は妊娠中で、出産予定日まで二ヶ月を切っていたからだ。骨が変形するほどのストレスが、自分の身体にかかっている。それは、野蛮な過酷さに思えた。
大学・大学院時代、私は人類学を専攻していて、その一環で「人骨の読み方」をかじった。
人間の骨を観察すると、その持ち主について色々なことが分かる。身体の使い方、怪我・病気の履歴、栄養状態などだ。物言わぬ骨と対峙して、生前の生活を想像することが出来る。骨盤の性差は、その初歩中の初歩として学んだ。
骨の読み方は、法医学者になるなら別だが、実社会ではまず役に立たない知識だ。就職に有利なわけでもなく、仕事で使える日も一生来ない。科学や法医学の現場でも、DNAなどを使うことの方が多いだろう。
だからこそ、その実益からの遠さが好きだった。大学でしか出来ない、何の役にも立たないことをやろうと思った。
私は人骨にのめり込み、縄文時代から現代まで幅広い時代の、老若男女様々な人骨標本を観察した。
そして大学院修了後は、専攻とは無関係にIT系の会社員となった。
◎ ◎
色々な選択肢と巡り合せがある中で、私は結婚し妊娠した。幸運にも妊娠経過は順調で、やがて出産の時が来た。
産むにあたって、大変なのは何と言っても陣痛であることは、知ってはいた。人生で一番痛いらしい。でも、お腹の中で育ってしまったものは出すしかない。
そんなものを自分が乗り越えられるのだろうか、という不安や恐怖は、妊娠の有無や出産の方法に関わらず、感じたことのある人が多いのではないだろうか。私は怖かった。
しかし、怖がっていても出産は待ってくれない。その日は容赦なくやって来た。
陣痛の間隔がかなり狭まってきた頃、私は、かつて自分が観察した数多くの、抉れた痕跡のある寛骨を思っていた。がっしりした大きな骨、子供のように小さくて華奢な骨、色々あったが、それらの骨の持ち主だった人たちは皆、身を削って生命を生み出してきた人達だった。
私は彼女らと、時を超えてがっちり繋がったように思った。出産前に大量に読んだ経験談より、具体的な手触りのある感覚だった。
陣痛はとても痛かったが、怖くはなくなっていた。
◎ ◎
私が気づいたのは偶然、出産の時だったのだけれど、いかなる時代・立場でも、どんな選択をしても、人生に過酷さはあるのだと思う。人類の一人ひとりが困難と格闘してきた先に、今私たちは立っている。
どんな分野であれ、学問で学ぶことは先人の遺した格闘の痕跡と成果だ。ある時にはそれらは、私たちの生活を前進させるのに役立つ。
また別の時には、現代で困難に直面する私たちに静かに寄り添い、ひとりじゃないと囁いてくれる。