わたしの大学での学びは果たしてどこで花咲くのだろう。

◎          ◎

中学生の頃から学校の先生になりたくて、大学は教育学部に進もうと思っていた。だが、未来は不確定なのに”教育”という縛りをつけてしまっていいのだろうかと思い悩み、教員免許も取れる文学部の国文学専攻に進むことを決めた。

本を読むことが昔から好きだった。言葉が好きだった。だからこそ言葉の面白さを伝えたいと思い、国語科の教員を目指した。

だがしかしどうだろう。大学に入学し、文学の授業を受けるがさっぱり興味を持てない。昔の人の文字を解読するのは難しいし、古語も全然わからない。面白さがわからないなと思いつつ授業は受け続け、大学1年生の冬、新型コロナウイルスが大流行した。全てがオンライン授業になり、通学することもなくなった。

◎          ◎

どこからでも授業を受けられることをいいことにわたしは地方に行き、長期インターンをしたり、旅をしながら授業を受けた。休学して日本一周している人、卒業後就職せずワーキングホリデーに行くための資金を貯めている人、自分で会社を経営している人。旅先で出会う人の中には、大学に通っていたときには出会うことのなかった、価値観を持っていたりおもしろく生きている人に出会った。

そして聞かれる。大学で何を学んでいるのか、これからどうしたいのかと。「国文学を学んでいます」と答えはするものの、その面白さについては語れない。教員免許を取るために教育課程を受けていたため、「国文学を学んでいます」の後には「教員免許がとりたくてこの学部に入ったんです」を、免罪符のようにくっつける。わたしはなぜ大学に通っているのか、何を学びたいのか。見て見ぬふりをしていた問いを突きつけられるような気がした。

◎          ◎

結局23年生の間もほとんど大学に行かないまま過ごした。授業を受ける理由は、教員免許を取るため。教育に携わりたいという思いは一貫して持っていたため、そのほかにも、保育士の免許も独学で勉強して取得した。教育系のボランティアやインターンもたくさんした。私の大学生活は、外に出ておもしろい人と出会い自分の価値観を広げるため、自分の知らない新しい世界を知るため。そして将来食いっぱぐれないために手に職をつけられる免許を取るためにあったような気がする。自分の選択しきた全てのものがあってこそ今があるため、そこには一切の後悔はない。

◎          ◎

だが、わたしが面白いと思えないながらに一生懸命受けた、国文学の学びはどこへ行くのだろうか。自分の関心のあるテーマ、中世文学の中における宗教に関する卒論も無事に書き終えて卒業した。大学卒業後の進路として学校の先生は選ばなかったが、いつか学校の先生になるタイミングでこの学びが生きてくるのだろうか。それとも予期しないタイミングでなにか繋がることがあるのだろか。

今は学んだことがなにか身になっているという実感はない。大学に何しに行っていたのかと問いかけられたらきっと悩んでしまう。そして「教員免許がとりたくて」という逃げを使ってしまうだろう。だが、いつかどこかでわたしの学びが花咲くこと、意味があったと思えることがあると信じている。