私の『学び』の先には必ず一皮むけた未来の私がいる。
◎ ◎
学生の頃、私は机に向かい教科書を開き教育を受けることが学びだと思っていた。
こんなことを勉強して何になるのか、なんてよくテスト前は友達と愚痴っていたけれどそれでも毎日出席して授業を受けテストを受け、その点数に一喜一憂し評価をつけられてきた。
平均点以上か、平均点以下か。私はいつも平均点以上満点未満。まあまあ、妥当、及第点。
目をかけるほどの点数でもなく本人のやる気と努力次第でもう少し上に行けるかなと見守られる位置。特筆すべきことも無く素行も悪くない。でも私もみんなの目に止まるような凄いところがあってほしい。そう思いながら新たな学びに挑戦してはまた同じ位置。平均点以上満点未満。私はいつも埋もれてしまう。
しばらく腐って「私なんて何もないんだ」なんて悲劇のヒロインぶりつつ私よりできない人を見つけて「私、出来るかもしれない」って思って挑戦してまた同じ位置。その繰り返しで何も学ばず生きていた。
◎ ◎
学んできたはずなのにーー。
興味のある様々な分野の事を細かく知っているのにもかかわらず私は何も学んでいなかった。ただ周りに振り回されて大切な根本の学びがおろそかになっていた。
本当の学びとは、人を助けることが出来るのだ。
そして救われる最初の1人は、他でもない私なのである。
◎ ◎
日本人の多くは無宗教で、クリスマスもお正月も楽しめる素晴らしい民族だ。懐が深くて宗教の隔たりが無い分、想像力も様々な垣根を簡単に超えていき豊かだ。
だけど海外の友達と話していてよく感じるが、ある強さに欠けている。それは自信。強固な神様像がある海外の友達は自信に満ちている。何か悪いことが起きたら神様に懺悔し赦してもらえる。良い事があれば神様に感謝している。心の底から信じている、というよりもそれが当たり前になっている。
私はどうだろうか。周りよりも自分が良いか悪いかで判断して平均より少し上に、出来たらもう少し上にーーと世間と自分を比べて判断しているんじゃないだろうか。そうなると世間が私にとっての神様?そんなバカな。
◎ ◎
頭では分かっているのにどうしても世間と比べながら生きるのがやめられない。それは幼い頃から学校で学んでいる弊害なのだ。「弊害」なんて強い言葉を使うと少し怖気づく私がいるけどここは敢えてこの言葉を残しておきたい。
決して学校教育が全て悪いと思っているのではなくて、頂いたものもたくさんある。プラスの事もマイナスの事も経験できている素晴らしい時代だったのは間違いないのだから。
◎ ◎
話を戻して、神様のいない私は一体何を基準に生きたらいいんだろう。世間?親?友達?はたまたどこかの宗教へ入信?
そんな私に1つの答えを示したのが、コロナショックだった。
パンデミックの初期、薬局には溢れんばかりの怒号が飛び不安と恐怖に支配された人々が
押し寄せた。私はその渦中で薬局店員として働いていた。小さな店内で揉みくちゃなりかすり傷を負ったお客さんが並ぶ列の先でレジを打っていた。一言二言の小言とクレームをもらいながら、私自身もマスクが欲しいのに販売を続けなければならないという焦りと怒りの中にいた。
パンデミックがいよいよ大混乱を巻き起こし一時トイレットペーパーが無くなるというニュースが流れ、さらに薬局が大変なことになっていた頃友人が電話をかけてきた。私は疲れと怒りで辟易としていた。その電話も出るのが本当に嫌だった。渋々出てしばらく話をして電話の彼女はこう言った。
「マスクが無いなら余っている布で作ればいいよ。消毒は強いお酒でもできるしね。大丈夫。マスクはそもそも人にうつさないためにあるからね。皆必死にマスクしてくれて、本当人情深いね!あとトイレットペーパーが無くてもウォッシュレットという最強の味方がいる!」
そうあっけらかんと笑った。彼女は病院の事務をしていて当時彼女自身も大変だったろうにわざわざ元気づけるために電話してくれたのだ。
私は目からウロコ。そっか、そういうことか!と合点した。
彼女も色々な事を学んでいる人だった。私と違う点は1つ。彼女の学びの起点は自分だった。自分が興味を持ったことを自分の興味が無くなるまで学んでいた。私はいつも世間から認められるものや、珍しく自分起点で始めてもすぐに上を仰ぎ下を見下ろし周りに振り回されていた。学びの中身は同じでも圧倒的に違っていた。
身につく学びとはこういうことかと私はとても驚いたのを今でも鮮明に覚えている。
その言葉1つに彼女の学びが凝縮されていた。
本当の学びとは自分と他を比べられないくらいの自信をもたらして強く生かしてくれる。
そして自分の大好きな人たちも助けて歩んでいける。
◎ ◎
これからも私はいろんな分野に興味をもって学んでいくんだと思う。その時には他の誰でもない私の為に学んでいく。全ての起点は自分にあるんだ。
「青い鳥」は自分の中にいるんだ。