私と可愛いとの繋がりは、根深くて、そしてろくなもんじゃない。

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10歳の時から、角張ったエラと、重い二重、低い鼻をずっと気にしていた。その頃から、大人になったら整形して綺麗になりたい、骨も必要なら切ろうと決意していた。

そもそも、美醜は本能とは違い、生まれついている感性では無い。つまり、後天的に身につく感性であるにも関わらず、皆ある程度一様に同じような人を綺麗だと認識し、同じような人を醜いと判断しているということだ。それほどまでに、社会が決める「これが美しい人間だ」というテンプレは、強固なものであるといえるだろう。

子供の頃の私は、テレビが伝えてくる美しい人間の姿と、自分自身の姿の差に、酷く苦しんでいた。小さい頃はテレビの女優に、中学生になれば同年代の可愛いとされている子に、自分との容姿の差からくる嫉妬や、激しい憧れ、色々混ざった強い感情を、ずっと持っていた。

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17歳の時、初めての整形をした。エラのハリを緩和するために打ったボトックス注射。結局それから通算30本打った。二重もやったし、鼻にもプロテーゼと耳の軟骨を入れ、作り直した。

化粧を覚えたこともあって、私は変わったし、周りの反応はもっと露骨に変わったけれど、そのうえで、美醜にこだわり続けていたのは、無駄な時間だったなと思う。人生に無駄は無いという人もいるけれど、そんなことは無い。無駄なことは無駄だ。

なにが、女の子は可愛くいたいだ。なにが、可愛い服で気分も上がるだ。

可愛いはそんな生ぬるいもんじゃない。ブスなら存在を無視され、蔑ろにされ、人間として扱われない。思春期の私にとって、可愛いは、人権そのものだった。そして、そこまで強くなくとも、女性の美しさが人権そのものと言わんばかりの風潮は、今だってずっと、そこら中にあるではないか。

チヤホヤされたかったのではなく、人間として扱われたいというのが、整形の主な理由だった。

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とは言え、ほとんどの人は整形をしない。そんな中、確固たる芯もなく周りの反応に負けて整形までした私は、多分相当キモイ。

けど、美しさを善とし、美しさをえこひいきし続けている世の中だって、めちゃくちゃキモイ。綺麗な女性が1人も出てこないテレビや映画を、見たことがない。東京の壁には至る所に美人を拡大したポスターがある。美人を引き伸ばしただけのポスターが、「都会っぽい」「洗練された」「センスの良い」ものとして扱われている。

でも、最近になってようやく私は、女が美しくいることは、絶対的な善いことでは無いんじゃないかと気がついた。美しさの周囲の人や物は、必ずどこかしら歪んでいる。綺麗な人に、人は強烈に惹き付けられるけれど、100%のまっさらな感情だけで惹き付けられている訳では無い事は明白だろう。美しい人本人がそうでなくとも、その周りは、人間らしい泥臭さに、存分にまみれている。

そして、そんな美人宣伝の多くが、美容に疎い、偉い、歳のいったおじさん達によって作られている。

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美しさ、それは、誰もを引き付ける強烈な魅力でありながら、結局のところ、ただの虚構にすぎない。年老いた偉い人たちの影響を多分に受けて作られた美人像があり、それにピッタリ沿う綺麗な子たちだけが特別扱いされ、それに沿って周りも美人を丁寧に扱う。そして、私は、虚構である特別扱いされる子達に憧れ、わざわざ整形までした。

女の子は可愛くいたいものだとか、綺麗なものが好きだとか、女子力だとか、もうそういうのは信じない。どうせ、「なんとなく」「都合が良いから」できた嘘だ。
しょうもなくて、強烈で、突き詰めたところで大して面白くないもの、それが「可愛い」なのだ。

そして、ここまで考えが纏まっていても、「可愛い」を完全に突き放すことも出来ず、結局美しさに惑わされて、苦しんで、調子が良ければ浮かれて、これからも生きていくのだろう。ほんとうに、私も、世の中も、しょうもない。美しさとは、重大でありながら、心底中身の無い、つまらないものなのだから。