同棲期間は3年を超えた。当初はお金も置き場所もなかった3人がけのソファに並んで座。テレビを見ながら夕飯を食べるこの時間が1番好きで、幸せを感じる瞬間だった。だけどその日は違った。彼が用意してくれた夕飯を口に運びながら、「この人といる時の自分が好きじゃない」と思った。思ってしまった。

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表情には出さない。だけど確かに広がる一滴の黒。誰より心地よい存在だと思っていたのに、「この人といる時の自分が好きじゃない」?別れの2文字が頭に浮かんで、無理やり取り消す。そんなこと、思わないでほしかった。

ひとまず夕飯をやり過ごし、日記を書くふりをして考えを整理する。一般的な恋愛のアドバイスとして、「その人といる時の自分が好きか」というポイントはよく聞く。自然体でいられるか、素直に言いたいことを言えるか、等のチェックポイントだと認識している。この2点において答えはイエスだ。私がグレーな感情を抱いた理由は、「優しいパートナーに甘えて生活している怠惰な自分が好きじゃない」からだった。

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かわいがられて生きてきた。背が低くて、体力がなくて、コミュニケーションが得意。苦手なことはやってもらおうとするタイプで、美術の時間には先生と仲良くおしゃべりしながら、版画をほとんど彫ってもらっていた。だって部活に遅れたくないし、人生で彫刻刀の技術を試される予定はない。「ちゃっかり取り入る私ってば賢い」なんて思っていたけれど、手を差し伸べてくれる人がいただけだ。

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同棲して3年が経つパートナーは料理が得意。一方、経験も少なければモチベーションもない、空腹に弱く機嫌を左右される私には、「お腹が空いたので食べたいものを作って食べる」一連の行為は神の御業に見えた。自然と、掃除や片付けを交換条件に、おこぼれに預かる日が増える。精一杯の感謝を伝えて美味しい食事をいただくのだが、無意識のうちに「この人は料理が得意で、私は得意じゃない」とすり込んでいたのだろう。何を作っても自分の味付けでは物足りなく感じるようになった。

「片付けやってくれてるじゃん」「一生懸命でいいじゃない、美味しいじゃない」自分でもそう思うし、彼も言ってくれたと思う。それでも、腹が減るのは毎日のことで、「この人はできることが自分にはできない」と思うのも毎日のことで。つい「片付けやるから」と楽な方に逃げては自分を責める。

版画と料理の違いは、甘える相手と回数、その内容の違いにある。美術の先生にどう思われたってノーダメージだが、パートナーには「将来家庭を共に運営する相手として頼りがない人間だと思われたくない」という気持ちが大きかった。それに、調理は自分でも「できた方がいいよねえ」と思うことだ。それが毎日のように続く生活を繰り返した結果、心は擦り減っていった。
確固たる自信と少しの傲慢、適切な距離感のもとに成り立つ甘えは「愛嬌」だった。かわいがられることは武器だった。それらの地盤がグラつくと、甘えは怠惰に成り下がる。志とは別の方角にあるもの。かわいがられることで、私は私を傷つけていたのかもしれない。

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その後、いくつかの理由が重なって別々の暮らしが始まった。自分がかっこいいと思える自分でいたい、と思ったことも、決断に影響を与えた。作り置きをせっせと作っては冷凍することで、自分のお腹を空かせないように工夫して暮らしている。
人に頼らない暮らしは、そもそも「頼る」コマンドが表示されない分、甘える甘えないの選択をする必要がない。諦めもスムーズで、凪いでいた。頼って甘えたやつと思われたらどうしよう、と思わないので、HPは減るけどMPは減らない。ストレスフリーとまではいかないが、ストレスの種類が変わった。より単純で修復可能なものに。

そして何より、パートナーとの距離感を見直すことができてよかった。パートナーに会える週末だけであれば、めいいっぱい甘えよう、甘えさせてあげようと優しくなれる。自分を許せる。また一緒に暮らす機会があったら、嫌いな自分に戻るのではと不安はある。しかし、単純に料理の修行は積んでいるわけだし、上手に甘えられた頃も思い出せている。適切な甘えと、与えることと、感謝を携えて、2人で生きていける未来が来たらと願っている。