私はいつだって「かわいい」自分でいたい。

◎          ◎

保育園生の時の夢はキラキラしたステージで歌うアイドルになることで、小学生の時はほぼ毎日といっていいほどスカートを履いていた。翌日着ていく服をきちんと決めてから寝るのが日課で、「かっこいい」イメージのパンツスタイルは自分の中ではNGファッションだった。

中学生になり制服を着始めると、今度は髪の毛をどうアレンジして学校にいくかに毎日命をかけるようになったし、スクールバッグも携帯も授業で使うノートも、当時の言い方をすると、思いっきりデコっていた。

高校生になると目立たない程度に髪を巻いて登校するようになり、眼鏡をやめてコンタクトにもした。カラオケの選曲や普段聴いている音楽、mixiやTwitterに投稿する一言、グループの中での自分のキャラクターなど、外見以外で自分を表現するある意味センスのような部分についても、私は常に「かわいい」を逆算して行動するようになっていた。

◎          ◎

でも私がつくりあげたこれらの「かわいい」は、最初から誰のためでもなく、自分自身がごきげんで毎日を過ごすためのおまじないのようなものにすぎなかったので、どちらかというと男子にモテることよりも、女子に共感してもらったり褒められたりすることの方が遥かに嬉しかった。それは社会人になった今でも変わらないのだが、最近アラサーという年齢のせいか、男性からの「かわいい」を今まで以上に素直に受け取れない自分がいる。

というよりも、この年齢で男性からの「かわいい」に浮かれることに危機感を覚えると言った方が近いのかもしれない。見た目がかわいい女の子なんてSNSをみればうじゃうじゃいるし、見た目の魅力の効果は期限付きのものなのだと最近気がつき始めた。顔つきなんて日々少しづつ歳を重ねて変わっていくものだし、「顔が好き」「すごくタイプ」なんて最初は本当に言っているかもしれないけれど、きっと長くは続かない。それは仕事やお金を稼ぐといった面でも同じことが言えると思う。見た目の若さという一見無敵に見える武器は、即効性はあるけれど持続性はない。だからこそ、そんなものにいつまでも頼ってはいられないのだ。

◎          ◎

でも私はおばあちゃんになっても「かわいい」自分でいたい。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、私がほしい「かわいい」は見た目だけの簡易的なものではないのだ。今の私は、振る舞いや笑顔、使う言葉から感じられる「かわいらしさ」が欲しい。髪型を整えて化粧をして作られるかわいさよりも、その人の中身から感じられる「かわいい」は今、私の中で「チャーミング」という言葉に形を変え、新しい自分をつくる1つの物差しになりつつある。

外見だけの「かわいい」という鎧を脱ぎ捨てるのには勇気がいるけれど、「チャーミング」という新しい価値観の着心地は今のところ抜群だ。若さや見た目だけに固執しない私の魅力を育みながら、これからも歳を重ねていきたいと思う。