私は自分の顔が好きだ。
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ナルシスト的発言が反感を買うかもしれないが、自分の顔が好きだ。
自分の顔を愛して生きていると自信をもって言えるし、もっと正確に言うと、そう思っていたほうが幸せだと確信している。
この意識には、明確な理由がある。
『かわいい』が果てしなく更新されるこの世の中で、友達や芸能人と比較しないようにしているからだ。
他人の正しいか判断しきれない基準に則って「かわいい」と言われる必要はないと思っている。
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学生時代に、大多数にとりあえず「かわいい」と言われているらしい一般的な顔と自分の素材との「比較」を繰り返した。その結果出た結論がある。どうやら、ここ十年ほどの日本人女性における「かわいい」の基準は、「二重」「色白」が必須条件らしい。もっと言えば、「垂れ目」であることはその評価に大きなボーナスが加えられるようだ。
多くの女性インフルエンサーが、「自分の顔を好きでいたい」「みんなかわいいんだよ」「自分の今の顔大好きー!」などと言う。とても大切な考え方だと心から賛同する。しかしそれは同時に、大多数に『かわいい』と認められているはずの彼女たちも、世間のルッキズムにまだ悩まされ、葛藤しているのだろうかとも感じ取れる発言だ。
プリクラの写りやアプリの自撮りでの加工の出来に一喜一憂するのも、女の子として、最高に充実した可愛らしい時間だ。「これなら憧れの人に近づけるかも!」とメイク方法や髪型、髪色、服装を真似してみるのも楽しい時間だ。
整形でも、エステでも、加工でも、ダイエットでも、メイクでも何でもいい。それぞれが満足する姿でいられれば幸せだと私は思う。
人と比較せず、人に敵対しなければ。
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周りの友達は、インスタグラムが話題の中心で、最近の〇〇かわいい、痩せた、と吐き捨てながらスクロールを繰り返す。個人的には、あまり愉快な光景には思えない。また、「かわいくなった」という言い回しもあまり好きではない。それを言われた方は素直に喜べるだろうか?むしろ、これまで可愛くなかったということか?と上から目線で失礼な発言と捉えてしまいそうになる。少なくとも、その言葉を素直に受け取れない私が入るべき世界ではないのだと思う。
私はそのような場所から引退した。
心のどこかで、SNS(の中に存在する名のルッキズムの世界)に釘付けになる友達とは少し距離をおいている。それは彼女たちが嫌なのではなく、自分自身が嫌な人間になっていく感じがするからだ。人と比較すると、周りの人がかわいいことに嫉妬してしまう自分がいるから。他人がかわいくても、自分の顔は、変わらないのだから。むしろ、他人よりもかわいくいたい、という「かわいらしくない」マインドが、人相に出てしまう気がして怖いから。
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私はかわいいと思う。
皆それぞれに、自分はかわいい、そう思っていたほうが、幸せな世の中になると思う。比較のない世界に。
顔の作りが整っていても、メイクが上手でも、肌が綺麗でも、スタイルが良くても、他人と比較しているときの顔は、かわいいとは程遠いはずだから。
相対的な『かわいさ』ではなく、自分だけの物差しに則った絶対的な『かわいさ』を持つ人は、全身から自信がみなぎっていて美しい。
私は、どちらかというと色黒で、つり目の強い顔をしていると思う。でも今日は敢えてファンデーションを塗らない。色黒をいかす大好きなオレンジカラーのアイシャドウをのせ、アイラインを上に跳ね上げてみた。そして自分が一番良く見えるシルエットの洋服を身に着けてきた。低身長だからこその高いヒールのサンダルを履き、颯爽と駅の改札をくぐる。
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数分後、カフェで友達のアカウントからインスタグラムの投稿を見せてもらうつもりだ。冷静を装いながらも、スクロールする手が止まらず、知り合いのきれいな写りに翻弄されるのだろう。
私もまだまだだ。