自分に救われる。こんな瞬間そうそう訪れない。しかし、エッセイを書くようになって、そういう場面に出くわしたことがある。自分に救われるって、なんだか不思議。決して誰かに助けてもらう訳ではなくて、自分に助けてもらう。それっていったいどんな場面?

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私は幼い頃から、自分という存在意識が薄かった。生きているのは確か。もちろん、皆、自分の人生を生きているのだけれど、そうとは思いきれない部分があった。自分の人生なのに、どこか他人事のような、そんな感じ。私にとって母の存在は大きかった。今でもそうだと思う。母の言う通りにすれば、きっと間違いないだろうし、必要以上に傷つかなくて済む。そんな思いがあって、自分という主体的な意識が、いまひとつ欠けていた。自分の人生、自分のために…そういう思いがあまり感じられていなかった。

生きている以上、必要最低限のこと…例えば、食事、睡眠、入浴など…もちろん、やるにはやっているけれど、自分を労っているという認識は、どちらかといえば薄かった。先日、インターネットで、若者の孤独死が増加しているという記事を見た。その記事に登場していた言葉、「セルフネグレクト」。この言葉を見た時、どうも他人事とは思えなかった。私も過去に、そういう意識が心の中に大なり小なりあった。自分を大切にできない。自分を認めてあげられない。その時は、そういう状況にすら気づいていなくて。それが、また苦しくて。

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しかし、ある時、限界を迎えてしまったのか、何かが舞い降りたかのようにはっと気づかされる。私は自分の気持ちに耳を傾けられていない。もっと、自分の声に耳を傾けて欲しい。まるでそんな悲痛な思いが聞こえたかのような気がした。その時、これまで自分がなんとなく無理をして自分をやっていたことに気づく。そもそも自分というものを知らない。自分の良いところ、悪いところ。そんな単純なことですら、ぱっと出て来ない。まず、自分と向き合うことから始めないと。

ひょんなことから始めたエッセイの執筆。それは、もちろん純粋に楽しいという理由もあるけれど、何より自分のために書いているという要素もある。エッセイを書いていると、じんわりと心が解きほぐされる。「私って、この時こんな風に思っていたんだ」といったように、想像もしていなかった自分や新たな気持ちに出会うことがある。それは、きっと心の奥に秘めていた自分の姿や思いで、なかなか外に出す勇気がなかったんだと思う。それがこうしてエッセイを書くことによって、ひょっこりと現れてくれるのは嬉しい。

もちろん、エッセイをたくさんの人に届けたいという想いもある。身近な人をはじめ、顔も名前も知らない遠くの誰かにもエッセイを読んでもらうことで、何かちょっとしたきっかけや励みにでもなれば……と無名の身分で厚かましいながら、そんな願いがある。自分と同じような思いを抱えている人に、少しでも思いが届いたら、どんなに嬉しいことだろう。しかし、エッセイがたとえ、誰の心にも届かなかったとしても、読者は必ずここにいる。そう、エッセイを執筆している私自身が最初の読者。私自身が自ら執筆したエッセイに救われる……そんな瞬間に出会った。一体それはどういうことなのだろう。自分が自分に救われるなんて。

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きっと、それだけ自分と向き合えているということなのだと思う。今まで向き合えていなかった分、その喜びは、はかりしれない。自分を大切にするというのは一見、簡単そうに思えるけれど、私にとっては、まだまだ難しい面もある。どんな自分も受け入れることがゴールだとしたら、今はまだ中間地点。いつだって輝いている自分だけが自分ではない。傷ついた時、落ち込んだ時、そっと手を差し伸べてくれる人こそ自分…。これからもずっと見守っていて欲しい。