私の『学び』の先には、子どもがいてほしい。
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中学生の時に教師になりたいと思い始めて、昨年その夢を叶えた。不純な動機。私は教師が嫌いだったから、教師になったのである。
「分数の割り算がすんなりできた人はその後の人生もすんなりいくらしいのよ」
『おもひでぽろぽろ』という映画の中でタエ子という主人公がこのような台詞を言っていた。
私は分数の割り算がまるでできなかった。"分母と分子をひっくり返す"に「なんで?」と引っかかるような子どもだったのだ。その「何故?どうして?」は、算数の世界に収まらない。納得できないことが多く、理不尽や違和感を自分の中に落とし込むことができなかった。
だから、反抗する。言葉にならなかったモヤモヤを反抗心に詰め込んで、大人たちに抗った。しかし、先生たちはどんな時もこう返す。
「そういうものだから」
「ルールはルールだから」
ムカついた。腹が立った。なんで、なんで、なんで。
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中学生3年生の引退間近で部活を辞めた。顧問が2年生の時に変わった。熱量のないその顧問は、子どもたちに尋ねることもなく組織やシステム、何もかもを強引に変えた。部活は、崩壊した。先輩後輩の関係に亀裂が入り、仲間たちが次々と辞めていった。
高校3年生の時、先生に追い回された。遅刻寸前、猛ダッシュで学校に向かっている最中に片方の靴下がずり落ちてしまった。靴下が短いのは校則違反だと先生たちに怒鳴られて、「怖い」と言うことができなかったから逃げた。罰として持ち物を全て奪われた。
大人は、強い。ただ大人であるというだけで絶対的な存在だ。私たちの気持ちを無視することも、言動の裏にある背景を無かったことにすることもできる。私は今だって、納得していない。
中学生の頃から私は「教師」という職が嫌いだ。高校生の時には、もっと嫌いになっていた。大人たちにとって、私は可愛くない子どもだっただろう。不安定で我儘で厄介な子どもだっただろう。
だから、分かってあげたいと思った。私なら、子どもたちの生きづらさを分かってあげられると思った。それは上辺だけの同情なんかではなくて、共感としてだ。彼らの苦しみを、不満を、もがきを、怒りを、私は分かりたい。
子どもたちが抱いた「どうして?」「なんで?」を「そういうものだから」と無かったことにして無理やり飲み込ませたりしたくない。上手く言葉にできなかった気持ちこそ、大切にしてあげたい。彼らの言動には必ず理由があると私は知っている。
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これが、私の『学び』である。教師として働き始めて2年、日々子どもたちの生きづらさを目の当たりにしている。大人の世界の醜さに傷ついている。だから、守りたい。まだ学校と家にしか世界がない彼らの居場所を作ることのできる教師になりたい。頭ごなしに否定したり、決めつけたりしないように努めている。
話を聞いてほしい彼らに耳を傾けて、分かりたいという気持ちを持ち続けようとしている。自分が経験した辛さや苦しさは、誰かを救うかもしれない。そんな経験から得た学びこそエネルギーにしたいのだ。
私の『学び』の先には、子どもがいる。そう信じて、今日も学校へ行く。