ある日、後輩女子が髪を切って現れた。肩に少しつくくらいのミディアムヘアから、ショートボブに変身していた。柔らかい笑顔が印象的な彼女にとてもよく似合っていた。
◎ ◎
私は思わず「髪切ったんや!かわいい」と伝えた。 すると、笑顔でありがとうございますという返事の後にこう続いた。
「私かっこいい目指してるんです。どうです?かっこいいですか?」
私の発した「かわいい」という言葉は、突き詰めれば「とても素敵。よく似合っている」の意だ。それを「かわいい」の一言に凝縮させているのである。彼女にもその意は伝わっていたように感じた。女子同士の会話で「かわいい」という言葉をこのように使うことは、度々あることだと思う。
私はよく「かわいい」という言葉をつい使ってしまう。それはきっと、自分が「かわいい」という言葉を求めるが故に、相手も「かわいい」という言葉を欲しているであろう、同じような感覚を持っているであろうと思い込んでいるからだ。
髪型を変えた彼女に対してもそうであった。
◎ ◎
でも、全ての女子が「かわいい」を欲している訳ではないらしい。私は実感した。そして、私自身も社会全体も、相手の受け止め方を把握しきれていないような関係性では極力発してはいけない言葉だということも。しかし、それでも私は「かわいい」という言葉が欲しい。
現に私は、これまで「かわいい」の言葉を欲し、そのために行動してきた。
小学校の時はノートやプリクラを飾りつけることがかわいくて、中学の時はとにかく髪がまっすぐであることがかわいかった。その時々目の前の「かわいい」を手に入れようとこれまで私は努力してきた。そして「かわいい」が返ってくると、とても嬉しかった。私の「かわいい」への欲は深い。
◎ ◎
そんな私の人生の最終目標は「かわいいおばあちゃん」になることだ。
私が思う「かわいいおばあちゃん」とは、持ち物をかわいく飾り付けたり、髪をかわいくまっすぐにさせたりすることではない。
「かわいいおばあちゃん」の「かわいさ」も色々あるが、最近の若者はと目くじらを立てるのではなくて、「そんなものが流行ってるのね。教えてよ」と目をキラキラさせられるような、新しいものを面白がる気持ちを持ち続けていることもその一つだと思う。
過去や自分の知っている範囲にとどまらずに、新しい出会いをも面白がることで、毎日の楽しいを自分で生産していく。そうすることで、自分が満たされ、周りにも楽しいをおすそ分けすることができる気がする。
◎ ◎
仕事の帰り道、スーパーに寄って、半額になった夏野菜のモロヘイヤを手に取った。モロヘイヤって何だろうとスマホで検索し始めた1時間後には、未知の野菜モロヘイヤは立派なおひたしに進化した。なかなか美味しくできて、思わず笑みがこぼれた。小さな新しい出会いだったが、これも私自身の楽しいとご機嫌の生産で、「かわいいおばあちゃん」への一歩である。
私は「かわいい」に近づこうとこれまで生きてきた。そしてこれからも、死ぬまで私は「かわいい」を追いかける。