幼い頃から料理が好きだった。しかし、それから呪いがまとわりつくようにもなった。

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そもそも料理をするようになったのは、共働きの両親と、いつでも出来立てのご飯を食べたいという食い意地とを持ち合わせて成長したからであり、すべて私の生活のためだった。

小学生の頃から覚え始め、中学生になると完全に自炊をするようになり、高校の頃には反抗期で親の作るご飯を食べることができなくなった友人のために重箱でお弁当をつくるほどにまでなっていた。私のなかで料理とは、私と私以外の人が生きるための手段だった。

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ところで、女が料理することは当たり前だろうか?そして、料理とは「女子力」だろうか?私は女であるし、料理もする。それなりに人に食べさせられるほどの腕も持っている。そうなるとだいたい言われる言葉が「女子力あるねー」だ。そこにずっと、違和感を感じて生きてきた。

なぜなら、私にとっての料理は女だから習得したものではなく、生きるためだからである。動物が狩りをすることと同じことであるし、排泄や入浴と同じように自活のために人間が最低限覚えなくてはならないもの、として料理を覚えた。

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その言葉に対する違和感を感じる点は、もう一つある。それは、メディアで出てくる料理人は、大抵男性であることだ。料理人は大抵男性であるのに、料理ができることは「女子力」と片づけられる。じゃあ料理人である男性は、皆「女子力あふれる男」だろうか?

血気盛んな思春期のころから、私は「女子力あるねー」と呪いをかけられるたびに前述の2点を盾に反抗してきた。「私にとって料理とは、女子力ではなく生きる術なのである」と。繰り返し繰り返し、時には「女性特有のヒステリーだ」とジェンダー差別とも言える批判を受けながら。長年指摘し続けた成果か、私の周辺では女子力という言葉を使う人がほぼいなくなった。ちょうどジェンダー平等という言葉や考えが広まり始めた頃だった。私の言葉によって、私の周りの小さな社会の未来が作られていったのだ。

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もっと広い社会でも、平成が終わりに向かう頃から女子力という言葉への糾弾運動がはじまり、どことなくこの言葉を発する人は少なくなったように思うが、令和となった今でもその呪いは存在する。
「女子力あるねー」は、料理だけでなく裁縫や掃除の仕方など、とにかく気配りと手先の器用さが際立つ作業のときに言われる言葉だろう。たしかに料理も裁縫も掃除も、ある時代では花嫁修行と呼ばれ女性が覚えなくてはならないものであった。しかし今は令和であり、花嫁修行のための学校なんてものも無いだろう。それは女性の社会進出の証であり、それを覚えることに性別の違いが必要ないと社会が認めた証なのではないだろうか?

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そして女子力という言葉には、#MeToo運動で挙げられる事例ような実害はない。しかしじんわりとまとわりつく湿気のような呪いの力はある。何気なく、一見褒め言葉のように聞こえる言葉だからこそ発言する側に悪気は一切ないのだろう。でもその言葉の持つ深い呪いの力を、知ってほしいと思う。

私が変えた未来は、たかが半径5メートルほどの社会であるけれど、それでも声を上げ続けることには、意味がある。「それは女子力ではなく、生活力というのだ!」