わたしは1年ほど前、インド人の同い年の友人ができた。
彼は日本語をほとんどしゃべれないので、日本語教室に通っていた。ちょうどわたしもそのとき日本語教室に興味があり、ボランティア側として一緒に参加していた。普段、わたしたちは英語で話をしていた。

なぜわたしは日本語教室に興味を持ったのか。
そのころわたしはホテルのフロントとして観光客の接客をしていたが、この接客を観光以外の外国人サポートに活かしたいと思っていた。
そのように至った経緯は、10年ほど前にさかのぼる。

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わたしが高校生だった2014年ごろは、新聞やテレビのニュースは、東京オリンピック招致に沸いていたように思う。そんな風潮の中でわたしはホテルの専門学校に進もうかなと考えていたことがあった。

大好きな小説の登場人物の1人のホテリエのようになりたかったことと、幼いころから国際交流団体に入っていて、5か国以上の外国人のホームステイの受け入れをしたり、自身も小学生のころ、ロシア・ハバロフスクで2週間ホームステイしたりしたことがあったため、外国人のおもてなしをすることに憧れがあった。

一方でわたしは当時、新聞の(どんな記事かはあまり覚えてないが)入国管理局についての記事にとても衝撃を受けていた。観光と移民というと、分野的に言えば関係ない話かもしれないが、日本に来る外国人を受け入れるという点では一緒なのに、これだけ待遇が違うのはなぜなのか?と高校生ながら疑問に思っていた。
上記の問題をとくに意識したわけではないが、観光業をあきらめ、大学でメディアやジャーナリズムについてを、いちおう、専攻した。日本に住む外国人についてもかじった。

わたしは経済やビジネス的視点で物事をあまり考えられないのだ。

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ある日、日本語教室の帰りにインド人の友人の買い物に付き合うため、ショッピングモールに行った。さまざまな色やかたちの上着を試着し、防寒やデザインなどの機能について教えてもらうため、店員さんを呼んだ。

店員さんの言うことをわたしが通訳して伝えたり、店員さんも英語で彼に伝えようとしていた。そのうち、だんだんと違和感を覚えた。なぜわたしが通訳しているのだ……?

店員さんは、ほとんどわたしの方を向いているし、完璧な英語をしゃべろうとするあまり、眉間にしわを寄せてしゃべっている。おしゃれな格好をしているのに、険しい表情では、せっかくの着こなしが台無しだし、そもそもの接客の質もガクンと落ちてしまうだろう。

だいたい、わたしだって英語圏はおろか、海外留学をしたことが無い。完璧にしゃべれるわけではないのだ。とてもつたない英語を使っている。それにインド人の彼だって、英語は母国語ではない。インドの現地語が母語だ。
それでも、お互いに伝えたいことや言葉では表せないコミュニケーションがあったり、同い年だからなんとなく友達でいたいという感じなのだ。言語習得以前の伝えたいという気持ちの問題だと思う。

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店員さんは挙句の果てに、「紙に書いたほうが完璧な英語を“書ける”」と言い出し、ペンと紙を取りにどこかに走って行ってしまった。帰ってきたころには、彼は購入するものが決まっており、ペンと紙は何の意味もなさなかった。

ここは日本だ。確かに観光やビジネスでは英語を喋れる方がよいと思う。でも、日本に暮らす、日本語がしゃべれない外国人と日常レベルでコミュニケーションを取るときは、英語のテストをしているわけではない。険しい顔をしていては、表情を受け取る側は、何も不愉快になるようなことをしてないのになぜ?と思ってしまう。

○○人とか以前に、「その地域に在住・在勤している人」という共通点がある、とわたしは強調したい。
英語が完璧に話せることがコミュニケーション上手ではないとわたしは思う。多文化共生ではなくなってしまうではないか!