どうしても意識してしまう『あの子』がいる。
関係性は同級生以上友達未満(だと思っている)。
小中学校が同じで、当時は遊ぶ仲でもあり、一緒のクラスの時は、行動を共にするメンバーの1人だった。
だが問題が1つ、『あの子』とはほぼ「好きな人が被る」のだ。
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好きな人ができると、だいたいその子も同じ人が好きで、記憶に残っているだけでも中学時代に2回は恋敵だった。
1人はその子が付き合っている時に(それを知らずに)告白してしまい、とても怒られ、一時その子とその子と仲が良かった子達から避けられていた。
別の時には同じクラスだった頃に同じ人を好きになった。この彼とは私が付き合うこととなったため、その子は応援すると言い、彼と『友人関係』を続けた。彼のことを好き“だった”人が、ずっと関わり続けることを「友達だから」と割り切れるほど当時は大人ではなく、「彼女だから」と胸を張れる自信もなかった。
彼とは別れて疎遠になったが、その子とはずっと関わりがあった。2人が会っている写真をSNSで見ても、少し大人になったので、流し方を覚え、前ほど意識はしなくなったが、どうしても気にする自分がいた。
「どうせまだ好きで、あわよくば狙ってるのかも」と悪く言いながら、会える関係の「羨ましさ」を隠していた。彼のことは小学生の頃からずっと好きだったからか、思い入れも強かった。そのせいか、2人を見るとどうしても心がざわついた。社会人になりしばらくして、そのざわつきを遮断したく、SNSのフォローを外し、その後は平穏に過ごしていた。
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だが最近「彼氏ができて結婚するかも」と噂を聞き、ざわつきが復活した。
「あの子でも結婚できるんだ」
とても酷いことを思った。
それと同時にこんな酷いことを思う自分だから今でも1人なんだ、とも思った。過去にもライバル的存在は数人いたが、彼氏ができても「まぁ幸せそうでいいのでは」とざわつくことはない。だが、どうしてもこの子だけは割り切れないのだ。
結婚や彼氏の存在が勝ち組ではないと頭では理解している。しかし、頭に浮かんだ言葉は「負けた」だった。意識する時点で「負け」であり、このことが分かるほど昔よりは成長しているだろうが、この子に関しては「頭では分かっていても心が追いつかない」現象が起こるのだ。
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この話を友人に話したところ、
「結婚=幸せでないとは思っていても、じゃあ幸せって何だろう?の答えを持ってないから、世間一般で言われている結婚=幸せに引っ張られてもやもやしちゃう部分があるんじゃないかな」
「これを機に自分の幸せって何だろうって、向き合ってみるのはどう?誰かと話したり、紙に書き出してみたりしたら新しい発見があって楽しいと思う!」
すごく腑に落ちた瞬間だった。
実はパートナーと別れたばかりで、幸せな時間を失ってしまい、「幸せとは何か」の問いに明確に答えることが難しい状態だった。しかし、友人のおかげで、意識せざるを得ない『あの子』の存在、嫌な自分が出る『あの子』の存在の見方が変わった。
もしかすると自分と向き合うきっかけをくれるためにめぐり逢い、そして自分と向き合わなければならないタイミングでショッキングな情報が流れるよう、私の人生の神様は仕組んでくれたのかもしれない。
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このように視点を変えると、酷いことを思った自分も、『あの子』の存在も、少しずつ浄化ができるような気がし、自分と向き合う勇気が湧いてくる。
「物事は捉えよう次第」とよく聞くが、本当にその通りだと気付かされた。そしてそのきっかけを見つけられるかどうかは自分のアンテナ次第だ。『あの子』のおかげでまた1つ成長できるかもしれないと胸を躍らせ、今回のエッセイは終わろうと思う。