私は女だ。性別でいうと女だ。男ではなく女。ただそれだけ。
私は生まれてから女の子という時期を通り、現在は女性と言われる時期を通っている最中である。
女・女の子・女性。性別一つとっても、さまざまな表現の仕方があるものだ。
ときどき、これらのカテゴライズされた中にいる息苦しさを感じることがある。
女だから女らしくしなければならないことがあるからだ。私は私なだけなのに。

ここで伝えておくが、別に男に生まれたかったわけではない。私は私であるというただそれだけのことを大切にしたいだけだ。女に生まれたから、女らしくしなければいけないわけはない。

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これからを生きる女の子たちが、どうか女の子だからという理由で自分の個性を、好きを、押し殺してしまいませんように。

私は、小さいころから赤色やピンク色はあまり好きではなかった。ランドセルは、本当はオレンジ色か水色が良かった。私が小学校だったころは、女の子は赤色かピンク色の子しかいなかった。

今は時代が変わり、ランドセルの選択肢はとても増えたらしい。初めて知ったときはとても驚いた。たくさんの色を選べるようになっただけではなく、どうやら刺繍を付けたり、2種類の色を指定できたりするらしい。
私がもう少し遅く生まれていたら、私は間違いなくオレンジ色と水色のランドセルを背負っていただろう。

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ランドセルを背負い始める前に、よく言われてきたことがある。

「もう少し女の子らしくしたらどう?」。私が何度も言われてきた言葉。

別に、キラキラしたものや可愛いものが嫌いなわけではない。ただ自分もそれらを身に着けたり好きにならなければいけない、ということが嫌なだけだった。
女に生まれてきただけなのに、どうして好きじゃない赤色を着なきゃいけないんだろう?
そう思いながらも逆らうことはできず、いやいや着ていた。

長い髪を女の子らしく2つに縛られることも嫌だった。ただ、そうすると周りの大人が嬉しそうにするから、仕方なく従った。私は髪の毛と一緒に自分の本当の気持ちを縛られていたのかもしれない。と、今になって思う。

幼少期のアルバムを開くと、そこにはスカートを履いた幼い私がいる。長い髪を2つに縛った私がいる。女の子らしい恰好をした私がそこには確かにいるのだ。
しかし、その写真を見て思い出すのは、「この格好、恥ずかしかったなあ」という記憶ばかりだった。幼いと言えど、しっかり感情はあったし、好きなものと嫌いなものも自分で認識していた。そうだったはずなのに、そのことがおざなりになっていたようだった。
もう一度アルバムを見返すと、女の子らしい恰好を「させられた」私がそこにはいた。

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今でこそ、私は私のことを大切にできるようになったが、大人になる前は、想像以上に周りの環境に影響されてしまっていた。幼少期はなおさらだ。周りの大人たちが絶対的存在だ。

だから、大人になった今、私が女の子と呼ばれる子に関わるときは、絶対にその子の気持ちを尊重することを忘れないようにしたいと思っている。あなたはあなたである。ただ、それだけ。
何色の服に身を包もうと、髪の長さが長くても短くても、そこにあなたがいることには変わりない。自分の心が動くものを大切にし、違和感を覚えることは手放してもいい。
そう、伝えていきたい。

これからの社会はいったいどういう風に変化を遂げるのだろう。
余計なものに縛られずに、自由に羽ばたく人であふれる社会を、私は望んでいる。