特権性とは、『耳をふさいでしまえば「静かだ」と言える世界の住人』が持つものだとイ・ミンギョンさんの本の言葉を引用する。つまり、今は多様性の時代だから制限が多いとか、昔は良かったのに生きづらくなったとか、ただの言葉でそんな敏感にならなくてもとか、そう思えるのは今まで抑圧されてこなかった、気づかなくてすんだ側の特権性の象徴である。

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自分の社会への葛藤を言語化する語彙がなかった数年前の私は、抑圧を経験するたびに言葉の代わりに涙が止まらなかった。この社会のなんとも言えない不公平感に言葉を得ることで、特権側の揶揄に罪悪感を感じる必要はないと初めて思えた。

言葉は力だ。知れば知るほど絶望感に苛まれる不平等社会だが、学べば学ぶほど言葉という武器を自分を守るために使えるようになった。抑圧された側に説明責任があるのではなく、特権を持つ人間に学習義務がある。涙だけ出てきて言葉の出ない瞬間があってもいい。それほど抑圧されてきたという証だから、自分を大切にしたい。

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大学で失礼な言葉を浴びせられた時、「あなたは自分の特権性に気づいていない」と伝えた。すると、「僕も交通事故の後遺症を抱えた父がいて、白人だからって学費が安くなるわけでもないし、男だからってだけで車の保険代が高いし、デートで奢らなきゃだし、筋トレしなきゃだし、苦労も多いのに、君は僕を悪者扱いしている」と怒りをぶつけられた。

しかし、彼が恥ずべきなのは特権を持っている事ではなく、自分の特権と抑圧の社会構造を自覚しようとしないところにある。罪悪感に浸って欲しくて特権性の話をしたわけではない。そして、特権とは白人異性愛者の男性であることを理由に何か失ったり心配したりしなくてすむと言う事だ。

つまり、女性だからという理由でハラハラしながら夜道を歩いたり、黒人だからという理由で無実なのに警察に殺される心配をしなくて済むという事。その恩恵を日々受けていることを特権保持者は気がつく責任がある。

私の小さな抵抗は彼の頭の片隅に私の言葉は残るはずだ。たとえ、「僕だって大変なのに特権があるとか言ってきたアジア人の女がいた」という記憶でさえ、特権性のある人間に囲まれた彼の人生にノートを残せたと思う。彼の大変な過去は、私を傷つけていい理由にはならない。言葉は力だ。

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アメリカでアジア人女性として英語を第二外国語話者として抑圧を経験する私も、異性愛者で、国籍と見た目と母語が一致し、大学の学位を取れる経済的余裕がある恵まれた存在であり、爆撃や戦争、明日のご飯を心配しなくて良い、1人の特権保持者であるという事。

フェミニズムの話をする時、交差性を意識することを大切にしている。女性の権利だけでなく、多様な性、人種、国籍、宗教、学歴、家族構成、経済状況、言語などもっと多様な要因をもってして社会は私たちみんなに特権と抑圧をもたらすという考え方だ。

女性の権利の話をする時、私はその他に抑圧の要因になりうる特性を無視して誰かを置いてけぼりにしてはいけない。日々、抑圧されること、そして私も知らない間に誰かを傷つけているかもしれないこと、特権を振りかざしているかもしれないことを常に覚えておきたい。

私たち人類は、抑圧され、抑圧している。そんな負の連鎖に気がつくことは、結果として自分を守る術なのだ。抑圧の仕組みで得をしている人間は実はいないのだ。

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今日、昔からあった不平等の問題がやっと浮き彫りになり始めた。私たちは衰退しているのかと絶望したくなる日もあるが、世の中には抑圧廃絶に向かって歩もうとしている人も大勢いる。私もその1人になりたいから、傍観者にならず今日も誰かの頭の片隅にノートを残せるように、平等について語りたい。資本主義、白人主義、外見主義、家父長制、深く掘るほど醜いこの世界の抑圧に苦しむ全ての人に今日も私は思いをはせる。