恋人から花束を贈られて素直に喜べる人間は、幸せになれる。
私のなかのテキトーな持論です。
この持論は周りの友人たちの花束への感想や反応をもとに形成されていきました。
「うち、花瓶無いし」「管理めんどくさい」「そのお金あるならもっと別のものが欲しい」
なんて言っていては、よくないですね。
などと言いながら、私は完全にそちら側です。まっすぐに喜べず、ダラダラとひねくれた言葉を述べる側です。
ただ、憧れはあるんですよ。その対象は花束そのものでも、「恋人から花束をもらうこと」でもありません。恋人からの花束に素直に喜べる女の子に、猛烈な憧れがあります。
そういう子達っていうのは、花束に限らず、恋人からの施しを笑顔で受け取れるんですね。サプライズで素敵なディナーに連れて行ってもらったり、アクセサリーをもらったり。そういう出来事に対してちゃんと喜んだり、キュンとしたりすることができる。
そしてきっとその反応は無理にひりだしているわけではなくて、自然に湧いてくるもので、だからこそ贈った側も気持ちが満たされる。真に対等な関係が出来上がるわけです。
◎ ◎
私はというとですね。
サプライズディナーに招待されたとしたら、
「せっかく高いメシ食うなら、先に知らせてくれたらそれに向けて食事を調整したのに……」
などと考えると思います。
アクセサリーを貰ったら、
「選ばせてほしかった……」
という思いが頭をめぐります。
あと、どういうお返しが適切だろうか、なんてことも考えなくてはなりません。
実際、こういうことをしてくれる相手は「喜んでもらうのが一番嬉しい」と思うような方がほとんどなんでしょうが、それで自分を納得させることが、イマイチできないんですよね。借りを作っているような気になってしまう。何か返さなくては、いやでも私が頼んだことではないし……とはいえ何も返さないのも人としてどうかと思うし……などと悩み始めてしまいます。
もちろん、全く嬉しくないわけではないんです。施してくれたこと、施そうとしてくれたことに対しては、ありがとう、と思います。しかしそれらの思いを、先述したような負の感想が猛ダッシュで追い抜いてくるんですよね。まず湧いてくるのは、結局そっちなんです。
◎ ◎
このひねくれ精神は、恋愛以外の部分にも影を落としています。
言うまでもないことですが、何事においても素直に受け止めて瞬発的に喜んだり反応できる者が強いんですよ。
例えば会社で同僚の仕事を手伝ってあげたとして、礼だのなんだのウジウジ考えられるよりも、すぐに心からの感謝を述べられた方が嬉しいですよね。
冒頭の持論に話を戻しますが、「恋人からの花束に喜べる人間が幸せになれる」のは、単に恋人に幸せにしてもらえるからとか、そういう話ではないのです。
してもらったことをストレートに受け取れる人は、幸せを与えることができるし、相手にもまた与えたいと思わせることができる。自らの力で幸せに向かっていける人かどうかが、花束への気持ちに表れていると、私は考えます。
ただ、私とひねくれ精神との付き合いは、突き詰めて考えればもう20年近くになります。今更縁を切るなんてちょっと無理です、不可能です。
もうすぐ26歳。まだまだ長い残りの人生、多分ずっと腐れ縁が続いていくんです。周囲の優しくしてくれる人たちのためにも、自分自身のためにも、ちょっとずつ距離を置いていきたいんですけどね。