よく、誰かに強く憧れて、「○○さんは天才ですよ!」と言う人がいる。でも、個人的に、天才、と安易に誰かを持ち上げるのはあまり好きではない。その人のことが理解できないからこそ、天才ということばを使っている感じがするから。
でも、理由はわからないけれど、この人みたいになりたい!という強い気持ちを持つことは誰しもあるだろう。そんなときに、遠くから憧れ続けるのもいいけれど、正しく憧れて、正しく失うことではじめて、その「憧れ」に到達することができるのではないだろうか。

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わたしもこれまで、数々の「憧れ」の対象を「失って」、成長してきたと思う。ここでわたしが、「憧れを失う」と言っているのは、「憧れ」に到達することを指している。憧れとは、自分とその対象との距離によって生まれるから、横並びになったら、そもそも憧れる必要がなくなる(だから、憧れを保っていたい人にはこのプロセスを取ることはおすすめしない)
以下の2つの問いに答えることで、「憧れ」を失う過程が分かる。

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1つ目は、「憧れ」への到達までにはどのようなステップがあるか?という問いである。
前述の通り、「憧れ」とは距離のことだ。では、その距離は何が作っているのか?またそれを縮めるには何が必要か?を知ることが必要になる。

高校生の時、勝手にライバル視していたあの子。勉強も、スポーツも、りんごの皮むきも、何でもできた。最初は天才だろうと考えていたけれど、彼女の近くにいるうちに、その仕組みが見えてきた。彼女は、ものすごい反復を、すべての領域で、効率的にやっていたのだった。完璧に見えた彼女も、わたしが読める漢字の読み方を知らず、小テスト前にくりかえし記憶していた。りんごの皮むきだって、最初はできなかったのに、夏休みに完璧に練習してきた。その隅から隅までの反復が彼女の能力を構成するものであり、また、わたしの「憧れ」到達までの道すじでもあった。もちろんわたしはすべてを効率的にするのは難しかったけれど、自分の得意な領域に絞って徹底的に反復することで、自信をつけることができた。そしてそのとき、「憧れ」はなくなったのだった。

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2つ目は、「憧れ」に到達するまでの道すじや日常は自分にとって許容可能か?という問いだ。
この問いによって失った「憧れ」もこれまであった。例えば、わたしはプロのダンサーを目指していた時期があったのだが、プロのダンサーになるまでの道すじを考えた時、また、その日常を考えた時、その生活自体がわたしにとってはしっくり来なかった。自分がやりたいことはあくまで表現活動であって、それはプロのダンサーという形以外でも叶えられるということを知った。これによって、ダンサーという職業への「憧れ」はなくなったけれど、代わりに、働きながら、文章を書いて、本を作ったり、踊ったりしてもいいと気がついた。

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「憧れ」はそれ自体、すごく愛おしい感情だし、そこに到達するまでの道筋は、「憧れ」の感情自体に動機づけられている。でも、大きな「憧れ」の気持ちはときに、それに到達するためのプロセスのことを忘れさせる。自分をそこに連れて行くには、「憧れ」を正しく「失う」ための道筋を明らかにすることが大事なのだ。もちろん、失った後にも、憧れていたときの思い出はちゃんと残っている。英語の恩師、ダンスの教室で輝いていたお姉さん、塾の先輩……。思い出すと人生の転機に失われていった数々の「憧れ」がある。もう疎遠なひとが多いけれど、その積み重ねで今のわたしができている。