小さい頃からどうにも鈍くさくて人と同じ様に出来ない事が多かった私にとって、「人とは違う」という事が何よりも嫌だった。
まだ出来ていないの、という先生からの呆れたような急かす声、周囲の同級生たちのこんな事もできないんだ、という憐れみを含んだ目とバカにする言葉、何より恐ろしかったのが親から向けられる否定の言葉たちだ。
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不器用、という言葉で片づけてよいのか分からないくらい私の苦手なことはたくさんあった。算数の計算や文字のなぞり書きといった勉強に関するものだけでなくプリントを綺麗に折る事、靴ひもを結ぶ事、定規でまっすぐ線を引く事といった生活面に至るまで1日怒られずに過ごせる日はなかったような気がする。
そんな私に対して母は「こんなバカな子供は生んだ覚えがない。あんたはお母さんの子どもじゃない!」と怒鳴り、親が満足する仕上がりじゃなければ定規で思い切り手や頭を叩かれたりした。その名残なのか、私は今でも周囲に少しでも不機嫌そうな人がいると体が勝手に緊張してしまうし、大きな物音や怒鳴り声を聞くと気持ちが落ち着かなくなってしまう。
それでもどうにか母に愛されたかった私は、不器用なりに努力して年齢を重ねるとともに少しずつ出来る事は増えていったけれど、計算や手先を使った細かい作業はずっと苦手なままだった。国語や日本史といった好きな科目の成績は良かったものの数学はどんなに頑張っても成績が伸びない。
5歳下の弟は数学や英語が得意で小学生ながら何学年も先の勉強をしているのに、同じ姉弟なのにどうしてここまで違うのだろうとずっと苦しく、高校に入ると母は私の事を名前ではなく「底辺」と呼ぶようになり、弟も私をバカにするようになった。
数学を担当してくれていた先生は「和華さんが頑張っている事は知っているけれど……」と怒るに怒れないようで、家でも学校でも肩身の狭い思いをずっとしていた。
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「私はみんなと違う。こんなに頑張っているのに、なんでなの」とぶつけようのない苛立ちを心に抱えたまま卒業が近づいてきた頃、偶然目にしたテレビの発達障害特集で「ディスカリキュア(学習障害の一種)」と「DCD(発達性協調運動障害)」について知った。
薄々「自分は何かしらのハンディキャップを持っているんじゃないか」と思ってはいたものの、計算が出来ない事や不器用さについても名前がついていて自分以外にも悩んでいる人がいると知れた時、ずっとかかっていた霧がサーッと晴れていくようなすっきりした気持ちになった。
自分が努力不足だったわけじゃないのかもしれない、というのは自分自身にずっと張り付けていた「出来ない人間だ」というレッテルを少しはがすきっかけにもなった。
心療内科へ出向いたところ、いくつかの発達障害と二次障害があると診断された。
「障害者」という肩書きの付いた私に心ない言葉を投げかけてくる家族とは縁を切り、試行錯誤しながらもひとり暮らしを謳歌して、仕事も続けている。職場の方には障害を全て開示して苦手なこと、配慮してほしい事を伝えている。
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学生時代の私が見たら「自分の苦手なことをこんなにたくさんの人に伝えるなんて耐えられない」と思っただろう。出来ない事をさらけ出すのは弱みを握られてしまうような気がしてとにかく怖かった。小さい時から植え付けられた「人から見下されること」への恐怖感が強かったのだ。
でも今は出来ない事も含めて自分自身なんだ、私は底辺なんかじゃない。と思えるようになった。それに障害を開示することによって一緒に働く上司や同僚たちも指導がしやすくなるはずだ。
できない自分を認めるのは勇気がいる。それでも重い鎧になっていたプライドを脱ぎ捨てた今の方がなんだか肩の力が抜けて生きやすい。自分を知らず知らず苦しめてしまう怖いものと向き合うことで本当に自分のしたい事に進めていけるのかもしれない。