長い歴史の中で生まれた名字の多様性が消えていくのはもったいない

中学生くらいまでは、「好きな人と結婚したら、相手の名字になる」ことに、当然何の違和感も抱いていなかった。こっそりとノートの隅に好きな人の名字と自分の名前をくっつけて書き、さも結ばれたようなこそばゆい気持ちになって、幼い恋愛を楽しんでいたりした。しかし歳を重ね、ふと気がついた。「私の名字は珍しい」ということ。そして、「その名字はたぶん私の代で終わってしまうだろう」ということに。
由緒ある家系というわけではなく、親から名字を継ぐよう強制されていたわけでもない。ただ、単純に珍しい名字というだけだ。今後、日本に新しい名字が増えていくことはおそらくなく、これからもどんどん名字は「統合」されていき、その種類は減っていく一方なのだろう。そう考えたとき、私は、「名字の多様性」がなくなっていってしまうのは単純にもったいない、と感じた。
私の家系の子どもは私と姉しかおらず、どちらもが結婚して名字が変われば、簡単に名字は途絶える。仮に、私の名字となってくれる人と結婚しても、子供が生まれなければ、結局名字は途絶える。もし、子どもが生まれても、その子が女の子であれば、高い確率で、名字は途絶える。昔のように子沢山の時代ならいざしらず、結婚、そして出産の意義が問われ始めている現代で、名字を後世に繋いでいくというのは綱渡りのような奇跡が続いた上にやっと成り立つことなのだ。
そんな私は結婚をし、夫の名字に変わった。夫はよくある名字の次男坊だが、両家の両親とも、「どちらの名字にするか」なんてもちろん何も言わなかった。「普通に考えて」夫側の名字にするのが暗黙の了解だったし、私も、異議を唱えることはしなかった。今では、戸籍も免許証も家の表札も全部夫の名字だが、仕事上だけは、旧姓を使用している。職場の人事担当には各種手続きの際の確認を手間取らせて悪いと思っているが、今後も、旧姓を使っていく予定だ。後世に名を残すような論文を書く仕事でも何でもなく、書類上、自分の旧姓が記録されているというだけで、旧姓使用の実質的な意味ははっきり言って、ない。
「夫婦別姓」制度に関するネット記事のコメント欄で、「自分が珍しい名字で、手続きの際にいつも漢字の説明が面倒だったので、結婚して平凡な名字になり嬉しかった」というような意見を目にすることがある。また、仕事柄他人の戸籍をよく見るが、実際に、珍しい名字の女性が結婚して普通の名字になっていることが多い。「夫婦別姓」の是非だとか、女性側のみ氏変更の手続きの負担が多い現状の不公平感だとか、そんなことは私はどうでもよく、ただ、長い日本の歴史の中で、色んな変わった名字が生まれてきたのに、それがどんどん減ってしまうのは単純にもったいないなあ、と考えてしまう。
余談だが、私は息子2人に恵まれた。誰にも言ったことはないが、将来、子どもたちが大人になったときに養子制度などで私の名字になって、こんな変わった名字がいるんだということを後世に受け継いでいってくれないかなあ、などとこっそり空想する日々である。
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