人といる時、孤独感に苛まれることが多々ある。みんなといるようで、自分だけ他の人から見えていないし声も聞こえていない感覚になる。1人の時よりも強く独りを感じさせられる。

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大学生の頃、高校の友達5人で福島の大規模プール施設に遊びに行った。 
わくわくして楽しい気分で出発するわけだが、少しずつ心に穴が開いていった。一つ一つの出来事は些細なことだったと思う。

そのプール施設で有名なウォータースライダーに他の人を誘ったが、誰1人来てくれず、1人だけで滑りに行くことになったこと。夜の恋バナで、自分にだけエピソードがなく、何もない自分の人生を呪ったこと。自分がいない時に自分以外で自撮りを撮っていたこと。お土産を見る時に、待たせるのが申し訳なくて「先に部屋戻ってて良いよ」と言ったら全員颯爽と部屋へ戻ってしまって自分1人取り残されたこと。

ちょっとしたことの積み重ねで、帰り道のバスでは一言も発せない状況になっていた。悲しみや寂しさでいっぱいになると、普段自分がどうやって話していたのかわからなくなる。そして、和気藹々と話す友達の傍ら、雑談の一つもできない自分がさらに嫌になり、抜け出せない闇に堕ちた。

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バスは最後尾の5人席に一列で座ったが、私は中央に座ることを意識した。なぜなら、私が窓から2番目に座ってしまうと、窓側の1人が可哀想になるからだ。私という壁のせいで他の人と話せないのが申し訳なく感じる。私以外の誰かと話せる状況であってほしい。一番端の窓際でも良いのだが、一番最初に乗り込むことがまずない。というのも、前を行っても誰もついてこないので大抵後ろを歩いているからだ。そのため願ったり叶ったりでもあるのだが、誰も自分によって会話が妨げられない中央の位置どりに成功した。

バスに揺られると、全員疲れて眠ってしまった。でも私1人眠れずに起きていると、隣で眠っている友達がコテン、ともたれかかってきた。その時の私の心境としては、慈しみでも嫌悪でもなく、罪悪感だった。
ただひたすら、もたれかかった先が私でごめん、という気持ちでいっぱいだった。私ではない誰かだったらよかったのにごめん、と心の中で謝った。

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帰宅後、私はなぜ自分がこのような心境に陥ったのか、心理を分析した。
カッコつけて分析と言ってみたが、やったこととしてはただ思いの丈をノートにびっちりと綴っただけだ。嫌な気持ちになった時や落ち込んだ時は、せっかくその気分になったのにその心情を忘れてしまっては勿体無いので、ノートに書き留めるようにしている。記録するとともに、書きながら冷静に自分を分析できるのでこの習慣は大切にしている。

上記の旅行以外でも、大人数で孤独を感じることは多々ある。その度にノートに吐き出すうちに、ある一つの考えに辿り着いた。

それは、自分は青のりだということだ。

特に味に影響はなくて、なくてもなんともない存在。かといってパセリや紅生姜みたいにどかすどかさない、好き嫌いがあるわけでもなく、それすら議論されない存在。青のりというのもおこがましいというか、むしろ青のりに失礼に当たる気もするが、つまりは自分の現住所が隅っこだということだ。

私は会話の中心にいる人にいつも憧れてきた。楽しそうだしただ羨ましい。その場にいなくてはならない存在、メインディッシュのような存在だなと感じる。
私は、自分が青のりだということをなんでか毎回忘れてしまう。今日は中心で楽しく話したいな、話せるかも、と無意識のうちに期待するものの、うまく会話に入っていけない現実に悲しくなることを繰り返している。まだ、自分のポジションを飲み込めていないかもしれない。

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ここまで暗い言葉ばかり並べてしまったが、自分が青のりだと認めることは、決してネガティブなことではない。
自分を、メインディッシュな存在の友達と同等だと考えてしまった方が、輪に入れなかった時に落ち込んでしまう。同じ土俵にいると考えてしまうから、自分にはユーモアも人望もリーダーシップも何もないのだと悲しみに暮れることになる。

メインディッシュの人たちはそういう特性で、自分も青のりの特性の人なんだと認めると、不思議と心が軽くなった。話に入れなくてもそれで良いし、上手に溶け込めた時にはそれはすごいことだと誉めることができる。それに、「話に入れていない私」を客観的にみてイタいなとか、恥ずかしいなと感じていたが、楽しく盛り上がっている人たちは、案外周りの人を見ていないことにも気がついた。

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また、青のりにしかできないことがあるようにも思えてきた。

上記と同じメンツで今度は北海道に行った時の話だ。相変わらず、私の提案には誰も乗らず自分の声が誰にも届かないことに心がめげていたわけだが、帰り道、何の気なしに荷物が多い友達のキャリーケースを運ぶのを手伝った。
するとその友達から、「本当に優しいね」と言われた。

純粋に助けたくて手助けしたかと言われると、そうではない気もした。自分の存在をここに示したいとか、良い人に思われたいという邪な気持ちもあっての行動だったため、「優しい」という言葉をそのまま受け取ることはできなかった。だが、これが私の在り方かもしれないとも思った。みんなをリードしてズンズン先をいくメインディッシュな友達は、このやりとりにも気がついていなかった。

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行く店や食べるものを的確に提案し、みんなを率いるリーダーシップを持った友達の押しの強さは、合わせる人がいるから成り立つ。陰で置いていかれた人のサポートをする人がいるからこそ成立する。群れについていけない人の気持ちが誰よりもわかる青のりの私は、補佐として、私と同じように寂しい思いをしている人や遅れてしまっている人を支えるでいいのかもしれない。