夫と結婚した時、自分が名字を変えることにさほど躊躇はなかった。実家の名字は決して嫌いではなかったけれど、夫の姓と自分の名前のバランスはまずまず良く、フルネームで書いたときの字面も綺麗だと思ったから。

入籍してすぐに、印鑑を買ったり免許証を書き換えたり銀行口座の名義を変更したり、確かに名字を変えるって煩雑なんだなと思うことはあった。でも、手続きの度に「ああ、結婚したんだ。これからこの名字で生きていくんだ」と実感できるのが少しくすぐったくて嬉しかった。

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何より、私は結婚を機に夫が仕事をしていた地に移住し、入籍を済ませてから再就職したため、主に職場における「名字の変化から事情を他人に悟られる」という煩わしさとさほど縁がなかったのだ。そのことが、名字を変えることへの抵抗を随分と減らしていたと思う。

私はそんな風にあまり抵抗なく名字を変えたけれど、友達には結婚前の名字に誇りを持っていて、変えたくなかったけれど相手の家と折り合いがつかず不本意に変えたという子もいる。職場では結婚後も変わらず旧姓使用という友達も多い。

そんな事情を踏まえると、好きな名字で生きられる世の中になればいいなと思う。選択制夫婦別姓がなぜ進まないのか、確かにその点はずっと疑問だった。

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けれど最近、何となくその背景には、明治時代から残る日本の戸籍制度が隠れているのではと思うようになった。そんなことを考えるようになったのは、今年の夏、本当に小さなきっかけから実家の家系図をつくってみたことに由来する。日本では、令和の時代になっても、名字=「家」なのである。そのことを強く実感した。

家系図を作るために、役所から除籍謄本(その戸籍に記載されている人が、結婚や死亡、転籍などの事情で、全員いなくなった戸籍の写し)を取り寄せ、4世代くらい上の人たちまでの名字や名前、生年月日、家族構成などを知った。特に、初めて聞く名字がたくさん出てきたのが興味深く、自分の歴史を紐解くようでとても楽しかった。

そこで感じたのが、名字を変えることは、完全に家が、属する家族が変わるということ。男性でも女性でも、結婚や離婚、養子に出るなどの事情で名字が変われば、新しく「〇〇家」の一員として登録される。

そして、如何にも古い言い方にも聞こえるが、亡くなった後に葬られるお墓も変わる。「結婚して名字は変わったけれど実家の近くに住んで、親とも頻繁に会って交流している」なんていう生前の事情は関係ない。戸籍上は、名字が変わることは、実家の家族とは別の家族になるということなのだ。

今の時代、嫁いだ、または婿に入った家の親と同居なんていう家庭は少ないし、お墓を持たない家も今後増えてくるだろうけれど、戸籍上は、やはり名字を単位としてひとつの家族がつくられているのである。

だからこそ、この「家」というものが差別を生み、結婚など様々な場面で人々の足枷になったという事例もたくさんあるだろう。私はそういった苦しみを直接知らないだけかもしれない。けれど、家と家とのつながりで人の命がつながっていき、自分が生まれたのも紛れもない事実である。名字に隠れる「家」というものは、良いものも悪いものも含めて、自分をつくる背景として無視できないのではないかと思うのだ。

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生きている人間が便宜を図る上では、名字を選択できるようになればいいなと思う。けれど、今の日本の制度では、名字は生きている人間だけのものではないのだ。古くさいかもしれないけれど、名字が表す家制度によって家系のつながりがわかり、今の自分があることを私は実感した。血を繋いできてくれた人たちに感謝の気持ちも芽生えた。

名字をそのように捉えるのは時代錯誤だろうかと思いつつ、これから名字が変わる人にも、捉え方のひとつとして伝えておきたい。