365日のうち、たった1日。眠るのが楽しみだった夜。
小学生の頃、うまく眠れないことが続いた時期もあった。それでも、クリスマスイブの夜に目を閉じる私の口角には、にじみ出る感情があったと思う。明日の朝出会えるプレゼントを思うと、足先がソワソワと落ち着かなかった。
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当日目を覚ますと、毎年同じ場所に出現するプレゼントを見に行く。クリスマスツリーの下には、姉妹3人分のプレゼント。「お母さんの字に似てる!」なんて母を問い詰めたサンタさんからのメッセージカードも、毎年お決まりのやりとりだ。「学校遅れるよ!」と母に急かされ、終業式の準備をする。登校班の同級生に会うなり、プレゼントの話をしながら通学路を歩き出す。
キラキラ輝いていた記憶も、時の川に流されていく。何年も習慣のように繰り返したから覚えているだけの、薄れつつある記憶だ。
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中学生になると、とある子育てエッセイ漫画をきっかけにサンタの正体を察することとなった。かつては「サンタがいないとして、大人がこぞって嘘を付く理由がない」と頭をひねっていた私も、全世界の大人が口裏を合わせて私たちの夢を守ってくれていたのだと理解できる年齢になっていた。
姉妹の中学卒業と共にプレゼントの数は1つずつ減り、我が家はサンタにスキップされるようになった。毎年やってくるクリスマスの特別感は薄れ、部活動や受験勉強の波に飲まれていく。キラキラしていたクリスマスは、「ケーキを食べられるイベント」に姿を変えた。
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大人になると、サンタのサの字もないクリスマスがやってくる。「イエスの誕生日になんでプレゼントをやらんといかんのだ」と斜に構えたこともあったが、冬の街が大好きなパートナーに連れられ、あれよあれよと「大人のクリスマス」に足を踏み入れる。イルミネーションを見に行ったり、予約したイタリアンでディナーを楽しんだり。幼い頃の記憶とは形を変えたが、これはこれで、クリスマス。
年齢とともに変化してきたクリスマスの過ごし方に、さらなる変化が訪れる予感があった。DSに夢中だった女児は27歳になり、日に2度も友人から結婚報告を受ける立派な女性に成長した。子どもを持つ友もチラホラ現れ、昨年は私と同じようにディナーを食べていた友人が、今年は息子へのクリスマスプレゼントを探している。
これは、もしかしなくても、私もいつか「サンタ側」に回る日が来るのだろう。親になる実感は我が子の産声を聞くまでピンと来ないと思っていたけれど、サンタ側に回る未来を思うと、悪くないなと思うのだった。誰の子どもであれ、「子ども」という種族の笑顔が見たい。サンタの素質に満ち溢れた、立派な女性に育ててもらった。
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今年も、恋人と相談してレストランの予約を取った。今はワインに合うご馳走を楽しみにしている私も、そう遠くない未来に、かつて過ごしたクリスマスに出戻りするのだろう。ある日、学校から帰ると用意されていた裸のクリスマスツリー。飾り付けは私たちの担当だった。あれは、確かに母の愛だった。
ダウンを着込まないと出歩けない季節。食卓を囲むリビングだけが、家族の笑顔で温かかった。愛おしい風景の登場人物として、新しい役で戻れることを楽しみにしている。