ぼうっとバスの車窓を眺めていると、庭先の柿が風に揺られるように、ぽつりと言葉が落ちてくる。「ああ、言葉が降ってきたなあ」と思って、その言葉を口に発するのではなく、紙やスマートフォンに文字としてしたためる。それはくしゃっと丸まった繭をほどいては紡ぎ、一枚の布を織り上げ、染めてゆく行為にも似ているかもしれない。
私は文芸創作を大学で専攻していることもあり、一般の方々と比較すると、読書や創作を通して、言葉に触れてきた機会が少し多いように思う。今回は、私が言葉にして良かったことをふたつ、共有したい。
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ひとつ目は、言葉にすることが、自分自身をすくう行為になっているということだ。
私は、食べることが恐ろしかったり、過剰に活動したくなってしまう過活動という症状が出たりする、神経性やせ症を患っている。体重の増加が恐怖である、一種の恐怖症であるこの病気は、食後の罪悪感をコントロールして泣きたい気持ちにさせたり、治療や回復を妨げようとしたりする。しかし、周囲にこの悩みは気持ちを共有できる者はいない。孤独とひとりで闘わなくてはならない。ダムの水底を覗きこむような心地が身を包む。
このように、病気のせいで気持ちがどうしても苦しく辛くなるとき、私は気持ちを言葉にしたためるようにしている。
そうすると、自分自身と病気にかかった自分と、病気でない「本当の」自分が、お互いに対話するような気持ちになるのだ。不思議なことに、病気の自分が離れてゆくのと同時に、体重の増加が恐ろしいという思いがほどけ、回復していきたい、と真の自分の心の声がまっすぐ届く。それは、暗闇に覆われた月夜をさまよう、自分をすくう行為でもある。
また、言葉と向き合っているときだけは、病気の自分を忘れて書くことに没頭できる。言葉をかたちづくることに触れていると、澄み切った青空にも似た、祈りと清らかさをたしかに感じられるのだ。
どうか助けてほしい……。そんな私の願いを、しずかに叶えてくれる言葉を紡ぐこと。それはお守りのようなものだ。闘病中の私にとって、なくてはならない大切なワークである。
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ふたつ目は、友人と文通をすることだ。私は去年から遠く離れた地に住む友人をはじめ、同じ都内に住む友人にも手紙やポストカードを送っている。
手紙を書くようになると、公孫樹がかすかに色づき始めた様子や、おぼつかない飛び方をする雀など、足元の小さな視点を拾うようになると思う。小説のように、手紙の書き出しを考えるためだ。
また、雑貨屋を巡っていて、「これは〇〇ちゃんに教えたら喜ぶだろうな」とか、「手紙と一緒にささやかなプレゼントを同封しよう」だとか、日常生活で相手の顔を思い浮かべては、じんわりと心が温まる瞬間に触れ合えるようになる。
文通のおかげで、世界は美しく、素敵なことに満ちあふれているのだと、改めて実感することができた。
それに、友人の性格やセンスによって、便箋やポストカードを選ぶのも、たまらなく楽しい。小動物みたいな友人にはシマエナガの桃色の便箋を、背筋がしゃんとしている友人には、清潔な白い便箋と、花の文香を。
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普段は友人に恥ずかしくて言えないことも、手紙なら素直に伝えることができる。なぜ浮かんでくるのだろう? という言葉まで登場するので、気恥ずかしさと一緒に、喜びも浮かんできて微笑ましくなるのだ。手紙だと饒舌になる友人もいて、なんだか裏側を覗きこむようで、ほんわかと楽しい。
自分の気持ちを代弁し、削って洗練してゆく宝石のような言葉たち。そんな欠片を拾い集め、言葉の荒野を歩いていこう。そんな思いを抱えて、今日も生きてゆく。