一人暮らしをしていた大学時代。
毎週水曜日の夜になると、私は資格の勉強をしに、家から1時間かかる場所へ通っていた。

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毎回、もうこんなことやめてやると思いながら勉強していた。

最初はただ楽しい気持ちだけで学んでいた語学が、究めると「ただしゃべれるだけの人」と「通訳をプロとしてやる人」の違いがまざまざとわかるようになる。前者にならないように、私は必死だった。

自分が得意だと思っていたことなのに、毎度打ちのめされていた。
「しゃべれる」と「通訳できる」ことの間にあるのは、言語の仕組みを熟知すること、第二言語として習得したそのことばを自分の中で咀嚼し、借りてきた猫ではなく、自分の言語として操ること。ことばの裏にある母語話者の文化的背景を知ること。その言葉を使いこなすための数知れない努力がある。

同じ講座を受けている受講生のなかではひとりだけぽっかりと歳が低く、親よりも上の世代の同級生たちとは話も合わない。馴れ合いのようなその場の雰囲気に負けそうだった。

表面だけは笑みを浮かべながら、今に見てろ、そんな反骨心でめらめらと心の中を燃やしていた。

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夜22時を過ぎる頃。

電車を乗り継いで、くたくたになって帰ってきたときに、最後の力を振り絞って作るメニューがあった。

疲れた頭で考えながら、スーパーで買った安い豚こま肉と、大容量パックのキムチを冷蔵庫から出す。

まず、豚こま肉に塩胡椒を振って火を通す。どうせ腹の中に入れば同じだから、大きさの大小はこの際気にしない。脂が多いからフライパンにそのままつっこんでオーケーだ。余裕があれば、玉ねぎやもやしなんかも一緒に入れておくと食感が出ておいしくなるけど、ほとんどの場合、そんな余力は残されていない。
肉に火が通ったら好きなだけキムチを入れて、さっとだけ炒める。あまり時間が長いと白菜のしゃきしゃきした食感が消えてしまうから、本当にわずかな時間だけ。

このタイミングで少しだけ醤油を鍋肌に垂らし、焦がした香りをプラスするのがポイントだ。最後に納豆を混ぜてフライパンに入れ、全体が馴染んだら盛り付ける。ほんの少しゴマやネギなんかもあるといい。

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お世辞にも、おしゃれとはいえない豚キムチ。だけど味は抜群においしくて、夜中に食べても罪悪感が少ない。

乱雑に皿に盛り付けて、すぐにスプーンで口に入れる。豚の脂の甘みと、火を通して甘くなったキムチの香りが鼻腔を抜け、今日1日のストレスがほぐれていく心地がする。満たされる。

いつも、今日こそは休肝日にしようと思っているけど、一口食べてたまらなくなってビールを開ける。最高のコンビネーションだ。明日早いのにな、と思いながら杯を傾ける手は止まらない。

少しだけマヨネーズをかけるとさらにおいしくなる。カロリーは高くなるけど、今日がんばったからいいよね、と自分に免罪符を出して、ひたすらに食べる。
キムチの赤とマヨネーズの黄色。少しだけ余っていた白い米を足し、ぐちゃぐちゃに混ぜる。絶対に人には見せられない見た目をしたそれを、最後の一片までかき込む。

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冬の寒い日、深夜のお笑い番組を見ながら、まだ部屋が暖まりきらないうちに、あつあつのごはんを頬張る時間。

帰るまでは「もっとあそこをこうすればよかった」という後悔と焦燥とで頭がいっぱいだけど、このときだけは何もかもを忘れて夢中になる。
そういう時間をたくさん経て、毎度毎度へこたれそうになりながら、もう少し、もう少しだけがんばってみようか、なんて思い続けて今日の自分がいる。

あのアパートで過ごしたそんな時間を、懐かしく思い出す。今夜は久しぶりに、もう一度あれを作ってみようか。