ひとより努力も苦労もせずに、ひとより恵まれている自覚があった。これは通っていた中高一貫校がわりとお嬢様学校の類だったがゆえに、電車で「お金持ってるんでしょ?」と声をかけられたり、学校名を答えると「いいな〜お金持ちだ!」と言われたりした経験をもとに、かなり早くに芽生えた。

あまり気持ちの良い思いをしなかったからか、気がついた頃には自覚は罪悪感になっていた。わたしは恵まれすぎている、と。

中学生の頃、好きなロックバンドがチャリティープロジェクトを立ち上げた。参加したいと思ったけれど、自分で稼いだお金は手元にない。かわりに伸ばした髪の毛を寄付することにした。社会に向かって良いことをしてみる一歩を踏み出せたから満足だった。

このとき、罪悪感が少し減った気がした。これ以降、ボランティア活動を積極的にやっている方だと思う。お金をもらわずに自分の時間を割いて、誰かや社会のために何かをすることで得られた体験とご縁と、そのたびに少しだけ薄れていく気がする罪悪感を携えて今も過ごしている。

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少し話は変わるが、先にも述べたように、わたしが通っていた中高一貫校は比較的裕福な家庭のこどもが通うところだった。きっと、その中に「満足に食べられていない子がいる」なんて、思い当たるひとはとても少ないのではないだろうか。

お昼ごはんは、お弁当を持ってきても、コンビニで買っても、食堂で食べても良かったのだけれど、家庭の事情でお弁当を持たせてもらうことも、なにか買うためのお金を持たせてもらうこともない友人がいた。家にある食料が底をつけば、食べるものはない。たまに長期間お昼ごはんを抜くから不思議に思ったのが最初だった。

その話をしていたときのその子はあまりにも淡々としていて衝撃を受けた。事情を聴いた次の日には、一緒に食べていた全員が、なんとなく多めにお昼を持ってきたり買ってきたりした。お弁当派だったわたしも、チャプチェを多めにつくって持って行った。

だんだん「多めに持ってきた一品を机の中央に置く」ようになって、それは誰が食べても良いことになっていった。持ち寄りパーティーのようで、側から見たら完全に「楽しそうな高校生たちのお昼ごはん」だった。実際クラスメイトの中にも「毎日パーティーしている」と思っているひとは多かったと思う。でも、むしろ、その方が都合が良かった。

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このときわたしは、お金でしかどうにもならないことがあると突きつけられた。同時に、どんな想定しづらい環境にいたところで困難な状況に置かれているひとはいる可能性があるし、その困難はかろやかな解決を試みられることもあることを知った。

あのランチタイムはわたしにとって絶望であり希望だった。今、わたしの関わるひとの幅は高校生の頃に比べて考えられないくらい広がった。いわゆるお金に困っているひとと出会う機会だって増えた。出会うたびに、あの日事情を話してくれた友人の凪いだ瞳とパーティーのようなランチタイムの喧騒がふと脳裏を過ぎる。