楽しかった雪かきは主体的に動くものに。いつしか雪が嫌いになった
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北国に生まれ、転居こそすれどずっと北国で暮らしている。道内でも降雪量の多寡はあるが、私はそれなり〜どっさりの地域に身を置き続けている。
その結果、すっかり、雪にため息をつく人間になってしまった。
小さい頃は間違いなく、雪=楽しいもの、だった。ほど良い坂スポットに行ってソリ滑りをしたり。家でも、雪かきで自然とできる雪山を利用したミニ滑り台で飽きることなく遊んだり。もちろん雪だるまも作ったし、親の車を雪で拭いて綺麗にしようとしたこともあった(それが逆効果であることを後で聞き、冷や汗をかいたものである)。
遊んでばかりでなく、雪かきにも参加していた。しかしそれも「楽しい」が勝っていたような気がする。親が「そろそろ終わりにしよっか」と言ったとき、少しガッカリしたこともあったくらいだ。
だが今振り返ると、それはあくまでも親主体だったからではないか、と思う。
基本的に親が中心となってやってくれて、私はお手伝い。ひと回り小さいスコップでえいやえいやと雪をすくい、「ありがとう!」と言ってもらって得意げになる。自分的には、そしておそらく親的にも、助っ人という立ち位置だった。
しかし十代も半ばになると、母が雪かきに出る瞬間に心がざわつくようになった。外は寒いし、勉強も中断したくないし……でも母だけにやらせるわけにはいかない(父はいいのか、という話は置いておく)。
つまり、私も主体となって動くべき立ち位置である――そんなことを、認識するようになったのである。
すると現金なもので、ずんずん積もる雪が嫌になっていった。とはいえ実家にいたときはまだ「楽しい」が勝っていた気もするが、実家を出て、そして雪かきが必要な家に住むようになってからの「嫌」になるスピードは凄まじかった。
運動になるから!……とポジティブに取り組もうとするも、なんでこんなに降るかなー、というイライラとげんなりは消えない。ひとりでやるのは疲れるが、他の住人のかたが先にやっているのを見ると、申し訳ないと思ってそれはそれで心が休まらない。ままならない。
私は出勤時に車を使うのだが、そうなると雪を落とすというミッションも発生する。窓が凍っていれば削らねばならない。ついでに言うと、無事に出発できたあとだって道が滑りやすかったり狭かったりデコボコしたりと、いつも以上に気が休まらない。そしてもちろん時間もかかる。
雪国の人って、そうじゃない人よりも時間を取られている気がするのだが、そんなことはないのだろうか。そんな悪態をつきたくなるくらい、雪が嫌になってしまった。今は小康状態だが、2月が本番というイメージがあるので、戦々恐々としている。
しかしそんな今でも、雪をかぶった街路樹たちと冬らしい澄んだ濃い青空のコントラストには思わず足を止めてしまう。しばらくの間、ぼんやりとその景色を見つめ、目に焼き付けるかカメラにおさめるか迷ってしまう。
なんでもない日にこの景色が見られる。「北国にいてよかった」という感情が自然に湧いてきて、ちょっと悔しくなるのだった。
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