「良かったね」

この言葉を言われ、私は恥ずかしさを覚えた。

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これは今から6年前の出来事だ。私の小学校には3個下の学年に有名なスポーツ選手の妹がいた。その子のことは、ここではAちゃんと呼ぶことにする。

当時、そのスポーツ選手はプロ入りする前で、スポーツ選手に疎い私は親からの情報を基に名前のみ知っていた。Aちゃんとは特別仲がいいわけではなく、数回会話をしたことがあるだけの顔見知りであった。

私が中学2年生になり、友達と地元の夏祭りに参加したときのこと。

偶然Aちゃんに遭遇した。周りには、Aちゃんの同級生が数人、そして私の小学校時代の同級生の女の子が1人いた。なぜ私の同級生がその場にいたかというと、その子の妹がAちゃんと友達であり、姉妹ともに親しくしていたからだ。同級生の子とは久々に会うため、会話が盛り上がった。

私の友達と同級生の子の二人の会話が弾み、私が少し蚊帳の外になった瞬間、Aちゃんと目が合った。そこで、ふと数日前の家での出来事を思い出した。

リビングに置かれていた新聞を眺めていると、その一部にAちゃんのお兄さんに関する記事が掲載されていた。記事の内容までは覚えていないものの、地元で聞いていた名前が載っていたのを見て驚いた。新聞に載るほどスポーツで活躍している選手であることを知らなかった私にとっては、インパクトが大きかったのだ。

そう、そのインパクトが大きかったために、Aちゃんの顔を見てすぐにそのことを思い出した。そしてそのまま、「こないだ新聞でお兄ちゃん見たよ」と口に出した。

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すると、返ってきたのが冒頭のセリフである。
「良かったね」…? 良かったのは妹のあなたの方じゃないの?
第一にそう思った。お兄さんのことを褒めたつもりだったのに、思った返事とは違う。
しかし、その後すぐに真意に気付いた。

きっとAちゃんはこれまで何度も同じようなことを言われてきただろう。
「お兄ちゃんすごいね」「お兄ちゃん〇〇で見たよ」といった言葉が、彼女にとってどのように響いてきたのだろうか。自分自身が評価されることなく、常にお兄さんの存在と比較されるような気持になったこともあったかもしれない。

私は、彼女の立場や気持ちに寄り添うことなく、自分の感情だけで言葉を発してしまった。Aちゃんにとって、「お兄ちゃん見たよ」の言葉は、きっと聞き飽きた言葉の一つだったに違いない。

さらに言えば、「見たよ」だけ伝えられた人間は、「そうか、それは良かったね」としか思わないのかもしれない。本人でなければ尚のこと。

そんな返答が来るとは思わずに言葉を発した私は、その場でAちゃんに気を遣わせてしまったことを恥ずかしく思うと同時に、ひどく後悔した。そして、曖昧な笑みを浮かべることしかできず、その場の会話を切り上げてしまった。それから夏祭りを楽しもうとするものの、頭の片隅にはAちゃんの言葉と自分の発言への後悔が残っていた。

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あの日の出来事は今でもときどき思い出す。

「良かれと思って言った言葉が、相手にとっては迷惑な場合がある」このことを学んだのは、あのときの出来事がきっかけだ。もちろん、身近な人が褒められて嬉しいと感じる人もいるだろう。しかし、そうでない人もいる。だからこそ、自分の思い込みだけで人に接しないことが大切だと気付いた。

言葉を発するときには、相手への配慮や工夫が必要だ。場合によっては、あえて言葉にしない方がいいこともある。このことを心に留め、自分の発言が適切かどうか考える姿勢が、これから社会に出ていろいろな人と関わっていく私にとっては重要になるだろう。

言葉は強い力を持つ。そして、その力を正しく使うには、深い思いやりと慎重さが必要だ。あの日の出来事は、私にそのことを教えてくれた大切な教訓である。