「生き遅れ」でもいい。私は夢のためにもがく22歳の私が嫌いじゃない
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18、19、20歳。この年代って人生のなかで一番楽しいし、社会の厳しさとともに大人だからこそ与えられる自由を学ぶ期間だと思う。そうした期間だからこその苦しみが、一歩成長させてくれるのかもしれない。
私にとって18歳から21歳までの期間は、本当に色んな試練みたいなものを感じるようになっていた。試練といっても他人から見ると、そこまで思い悩まなくても良いじゃないか、という事案だったともいえる。それでも私は、とにかく思い悩みすぎるしかないほどギリギリだったと断言したい。
そもそもギリギリの人生が楽しい、と言える大人っているのだろうか。子供の頃には想像すらしなかった大人の事情が、今では目の前に沢山広がっている。その広がりが集まって、山盛りに積み上げられた時、どれからどう向き合えばよいのか、わからなくなることのほうが多い。いつも大人は過酷なんだな、と嘆きたくもなったりもする。けれど、その反面、自由で気ままにやり通せば良いのだ、とやりたいことを正直にひたすら向き合うということは間違いではないと感じている。
そして今、「夢」の価値について私は考えるようになった。もしかすると夢というのは、突き止めることが難しいからこそ、人生をかけて追いかけていくものなのかもしれない。最近になって、そう思うようになった。
18、19歳のころは、夢は死ぬまでに叶えなければいけないことだと思い込んでいた。あの頃は、思い込んでいたというよりは信じていた、という表現のほうがふさわしい。22歳になった私が今だから言えることだけれど、18、19歳のときって、本当に純粋に、ある意味なにも考えずに、ただ夢だけを必死に追っていたのだ。そうした時間は、私だけではなく多くの大人が通ってきた道なのではないかと感じている。20歳を過ぎてみると、大学という社会と、働くという社会が、なんだか繋がっているようで繋がっていないのでは?と疑問に思い始めると、急に孤独感が襲ってくる。これは本当に大げさではなく、思春期の延長線上に生きているからこその感情なのだと、時に私は考えたりする。
しかしながら思春期の延長線なんてものは実際には存在せずで、18歳を過ぎると「一人で生きていかないと、自立できない」と厳しい視点で生き様を評価されることが一般的となる。まず、「一人」って何だろう?大人になると皆、一人だけで細々と生きているのだろうか?
もちろん、精神的にも経済的にも自立できる大人になることは誰にだって大きな目標であり、それを実現した先に夢が広がっていくのだと思う。このような考えを、18歳のときではなく、22歳になった今、ようやく私は理解できたのだ。恥ずかしいけれど、私は他人より生き急ぐことが苦手で、生き遅れてしまう人間なのかもしれない。それでも、いい。こうして普段は心のなかで見え隠れしている想いや、解けずに凝り固まったままの黒い感情を、文章で表すことができる環境に生きている限り、生き遅れた寂しい人間と思われても良いのだ。
1人で暮らしたことのない人間に何ができるの? 精神的にも自立できないのでは?
そんな言葉は、右耳から左耳へ、そこから空中へと放ってスルーしてやる。今こうして、夢とは何か、夢の価値を突き止めようともがいている自分が、嫌いではないからこそ、18、19歳のときに、もじもじしていた自分とは、さようならできているのだ。
10代だろうが、20代だろうが、40、50歳になっても、自分の人生は誰のものでもない。自分だけのものだ。大胆に振り切って、好きなものは好きだ、嫌いなものは一生好きにならない、と開き直った今だから言える、人生の真実が、過去、現在、未来をグルっと繋いでくれるのかもしれない。
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