自分の悩みを言葉にする。それはわたしの苦しさを少しだけ掬い上げた
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作家の村上春樹さんが、デビュー作『風の歌を聴け』でこんなことを書いている。
「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」(『風の歌を聴け』村上春樹、講談社文庫)
最近、もう何年も抱えていた問題を友人に打ち明けた。それがきっかけで、「少しずつ自分の外に出していった方がいいのかもしれない」と思い、某プラットフォームで文章にしてみた。
長い間悩んでいたのに、今までそれができなかったのは、言葉にしてしまうと陳腐化しそうだったからだ。これまで悩んできたことは、あっさり言語化できるようなものではない。言葉にしたら、苦しんできた自分を否定してしまいそうな気がする。もっとクリティカルには、自分の苦しみを自分だけのものとして守り続け、ことあるごとに何かの免罪符にしようとしていたのではないかと思う。
記憶をたどりながら、自分自身と対話しながら一通り文章にした今、変にさわやかな気持ちになっている。言葉は完全ではなく、掬い上げることのできた苦しさは3割といったところだろうか。自分の文章力のなさを恨むべきかもしれないけれど、危惧したとおりわたしの経験はある意味、陳腐な言葉に成り下がってしまったと思う。でも、過去の自分を否定したという感覚は少しもなかった
それは、毛玉だらけになって穴のあいた靴下をトリミングし、繕っていくような作業だった。友人や家族に改めて話すにはきっかけと勇気がいるし、エキスパートに話すと過度な期待をしてしまいそうな、身体にまつわるセンシティヴな話題。不特定の人々に読まれる可能性があるだけの、おもには自分自身のための言語化。わたしなりの、自己療養へのささやかな試みだった。
分かりやすく言えば、経験を客観視し、語りなおす作業でもあった。一人称の視点で経験したすべてのことを抱える「自分」からしばし離脱し、「あの時どういう気持だった?」「なんでそんなことをしたんだと思う?」と問答をくり返す作業。簡単ではなかったが、問いかけてくれる「第三者」が現れ、使い古された言葉にしていってくれたことで、わたしの苦しみは誰にでも許されている正当なものだ、という感覚を少なからず得られたのだ。
自分のためとは言ったものの、顔も名前も知らない人々に言葉が届き、こちらもまた人々の言葉に出会うという現象にはやはり救われた部分がある。直接言葉を交わしたわけではない。記事の下部にあるハートマークを押したり押してもらったりしただけで、最後まで読んでくれたという保証もない。だけど、少なくともわたしは、そこに何らかの「交換」が発生したように感じた。
あえて意地悪な見方をすれば、傷のなめ合いとも言えるだろう。でも、傷をなめ合える場所があってよかったと思う。こんなふうに見ず知らずの人と、スマホ一つで「交換」ができる時代になってよかったと思う。
友人たちと、「言葉」について一緒に考える会を開いたことがある。
「よひらは言葉って好きなの?」
「うーん、あんまり好きじゃないかも......」
自分でも意外だった。読書が好きで言語にも興味があるのに、「言葉が好き」と即答できないとは。きっと、嫌いなわけじゃない。けれど、わたしたちが日常で使うツールの中では圧倒的に優勢で、便利に見えて、期待してしまっているがゆえに、その不完全さやもろさに翻弄されてしまう。そんな状況を警戒するように、わたしはそう答えたのだった。
その警戒心は今も和らいではいないけれど、わたしたちの経験や気持ちに輪郭を与え、ときには想像もしなかった経験や気持ちを味わわせる言葉というものに、どうしようもなく惹かれ続けている。これからも、もどかしい思いをしたり、傷つけたり傷ついたりしながら、わたしたちの営みは言葉とともにあるのだろう。
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