刺激はたくさん受ければいい。やるかどうかは自分次第だから
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みなさんは、最近「のんびり」する時間を作れているだろうか?
最近ふと思うのが、「急いで!」と言われると走ることはできるけれど、「ゆっくり動いて」と言われてそのように行動することって、とても難しいことだ。もはや、「ゆっくり速度を落として」なんて日常で言われることも少ないように感じる。
毎朝電車の窓の向こうでは同じ景色が右から左に流れていって、帰りはさっきの景色が左から右に流れていって。家と会社のシャトルランだった日々。寝不足な時や体が骨の髄から痛いほど休めていなかったときは、地下鉄が行きなのか帰りなのかさえ判断ができず朦朧とすることがあった。明らかに、頑張りすぎだった。
2025年の目標、それは空白を楽しむということにする。
最近睡眠についての大切さが再認識されていたり、快眠枕、アロマグッズ、日常に癒しを与えてくれるものがより需要がある気がしている。ちょっと前、youtubeのコメント欄で睡眠の大切さは義務教育に入れてもいいなんて言葉を見かけて、確かになと思ってしまった。
だからこそ、今一度みんなにも休むことでかえって次の日のコンディションが整い、コスパもいいということを知ってほしいなと思う。頑張るということは、しっかり休んだうえですることだから。
今年の目標のもう一つは、「我関せず、自分のことを全うする」ということ。以前までは、人のことを自分事のように感じて時につらいこともあった。そんなとき、職場の心理士にノリで木のイラストを描いてと言われ、なんとなく書いたら「ももりんさんは葉っぱと空との境界がふわふわ描かれているので、人との境界が難しいときありませんか?つらくなりますよ」なんて一方的にジャッジされてイラっとしたりした。確かにそれで悩んではいたけど、木のイラスト一個で私の性格を勝手に決めつけないでほしいとおもった。
だけど、その時初めて「人と自分には境界がある」ということをぼんやりとだけど知ることができた。相談と答えをもらうことは違うとか、相手と自分で感情が違ってもいいとか、分かっているけれど隣にいる以上同調してしまうのは自然なことなのに。
自分のことに没頭するって、とても難しいことだけどディズニーの曲でもあるように「人は誰も一人」なのだと24歳にして思う。寂しいように思うけれど、考え方を変えればなんだってありなのだと思う。
最近、いろいろなことに挑戦している人が増えたように感じる。もしかしたらそういう人を自らSNSで手繰り寄せているのかもしれないが……。道端の人に「人生の後悔」なんて聞いて回る大学生のyoutuberや、野望を赤裸々に話すティーンエイジャー。そんな人がどんどん仕事を手に入れて突き進んでいる姿を見ると、少なくとも何かは感化される。
どうせまだまだ続くような命。どうせ明日も生きているんだったら、何をしようか。のんびり生きようか。
だけど、何かはしたい。一日に一つ、生産性のあることをコツコツと積み重ねていきたい。私は私、この人はこの人。線引きはもちろん必要だってことは、もうわかった。
だからこそ、刺激はたくさん受ければいいと思う。やるかどうかは自分次第なのだから。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
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