この先も私は、半分この小さい方を食べたい。だって愛してるからね

どんな人がタイプ?というテーマの中で、「愛情表現の豊かな人」という回答をたびたび目にする。心の中でどれだけ愛していても、相手に伝わっていなければ意味がない。愛し愛されていると感じるために、愛情表現は不可欠だ。
以前の私はここで言う愛情表現について、日常的に「好きだよ」「可愛いね」って甘い言葉を囁いたり、高価なジュエリーを贈ったりすることを思い描いていた。それはなんだか大人のお金持ちの世界で、平々凡々な自分には今後も縁がなさそうだなとぼんやり感じながら。
しかしそんな私が愛を感じたのは、日常の些細な場面だった。現在の夫がまだ彼氏だった頃、一緒にフードコートでポテトを食べていたときのこと。
「めぐみが美味しそうに食べてるの好き」と言う彼は、ポテトを食べる時には小鳥に餌をあげるみたいに私の口元にひょいひょいと運んできてくれた。今となっては外でなんて恥ずかしいことをしているんだろう、周囲の人たちごめんなさいという気持ちでしかない。
ふと、「私ポテトはふにゃふにゃ派なんだよね」と、口にすると、彼は「え!?」と大きな声を出して驚いた。油を吸ってふにゃふにゃにくたびれたポテトが好きってそんなに驚くこと?と笑うと、彼は人類がみなカリカリのポテトを好んでいるのだと思っていたようで、何度か「まじか」と繰り返していた。
「いや、だったら早く言ってよ。俺はずっとこの中でカリカリの上位選抜をめぐみに譲ってたのに」
今度は私がびっくりする番だった。
餌付けに使用されていたポテトが、まさか彼の中で選抜されたものだったなんて。てっきり適当なものを手に取っているとばかり思っていたのに、この人は、自分が好きなものを、自分が美味しそうだと思うものから順番に私に譲り続けていたのか。
ここで私は、「愛してるよ」って言葉で伝えられるより、高価なブランドバッグを貰うより、「愛」を感じてしまった。自分よりも相手に良い思いをしてほしいと願う気持ちは、とっても深い愛だ。私が元々思い描いていた言葉やプレゼントが愛じゃないとは全く思わない。それもそれでとても素敵な愛だし、上から目線みたいな表現になるが、「あれば尚良い」と思う。思い出にもなる。
けれどそれらの行為は、残念ながら愛がなくてもできる行動なんじゃないかとも思う。今回私が感じた「自己犠牲」みたいな愛はなんとなく、本気で愛してないとできないような気がしたのだ。
結婚して約2年。一緒に暮らすと、食べ物を半分こしたりする場面も多い。あとはお惣菜が奇数で2人で同じ数にできない場面とか。そんなときはいつも、必ず夫に半分こした大きい方や余った1個をあげるようにしている。
これがいつかのポテトの感謝だと、私なりの愛だとあなたは気づいているだろうか。多分気づいていない。私がお腹いっぱいだからとか、男で体が大きいから多めにもらえてるくらいにしか考えてないだろう。でも別にいいよ。私はあなたに良い思いをしてほしいだけだ。だって愛してるからね。
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