停滞は時間の浪費ではなく出発点、自分を再発見するための静寂だ

進むことが善で、停滞は悪だと、いつの間にか信じ込んでいた私たち。社会は効率とスピードを絶対的な価値とし、結果を急ぐことを美徳とする。
しかし、2025年を目前に控えた私は、少しだけ立ち止まって考えることにした。足を止めたからこそ見える景色があり、迷った先にだけ広がる可能性があると気づいたからだ。停滞は決して時間の浪費ではない。それは新しい出発への準備期間であり、自分を再発見するための静寂の時間なのだ。
2024年、私は日本に来た。それは幼い頃から抱いていた憧れを実現した瞬間だった。日本での生活は、未知と好奇心に溢れていた。杉並区の路地裏に差し込む午後の日差し、コンビニで見つけた温かいおでん、カフェで耳にするリズミカルな日本語――全てが新鮮で、私の感覚を満たした。
しかし、時間と共にその新鮮さは薄れていった。語学の壁、文化の違い、誰にも話せない孤
独。それらがじわじわと私を覆い始めた。「私はここで何を求めているのだろう?」何度問いかけても、その答えは見つからなかった。
そんな私が救われたのは、偶然の迷子だった。疲れた心を抱え、夜の街を歩いていた私は、気づけば知らない街角に立っていた。どちらへ進むべきかわからないまま立ち尽くし、ふと足元を見ると、雨上がりの路面に揺れる街灯の光と自分の影が映り込んでいた。
その瞬間、私は思った。
「迷うことは無駄ではない。むしろ、迷うことによって新しい景色が見えるのだ」
迷路の中では、時間がゆっくりと流れ、普段は見過ごしてしまう足元の石や風の匂いに気づくことができる。それは、目的地へ最短距離で向かう生活の中では決して得られない感覚だ。迷うことは、私たちを「今ここ」に引き戻し、失われた自分の輪郭を浮かび上がらせる。
あの夜、私は迷子になることの価値を知った。それは、自分がどこに向かうべきかを問うよりも、自分がどこにいるのかを知るきっかけだった。
2025年、私は21歳を迎える。世間的には、21歳とは何かを達成し、次のステージへ進む準備をする年齢だと言われている。明確な目標、確実な計画、高いスキル。それらがなければ、私は社会の中で取り残されてしまうのだろうか?
いいえ、むしろ私は「未完成」のままでいることを選びたい。完成を急ぐことよりも、揺らぎながらも前に進むこと。それこそが私にとっての成長であり、自由の証だと思うのだ。未完成だからこそ、新しい可能性が広がり続けるのだ。
そのために、私は以下の3つの行動を掲げることにした:
1. 停滞を恐れない
停滞は「無」ではなく、新たな発見のための静寂だ。たとえ語学が上手く進まなくても、その停滞の中で何を学んだかを見つめ直す。例えば、日記を書くことで、自分の成長を記録し、停滞すら成長の一部だったと振り返る時間を作る。
2. 挑戦そのものを楽しむ
完璧な計画を追求するのではなく、挑戦する過程に価値を見出す。例えば、メディア関連のインターンシップに応募したり、自分でブログを立ち上げたりする。結果ではなく、挑戦そのものが未来への架け橋になると信じている。
3. 未完成を誇る
人生はキャンバスに描かれた絵画のようなものだ。未完成の部分にこそ、その人らしさが宿る。私はその空白を恐れるのではなく、むしろその美しさを楽しみたいと思う。
かつて私は、自由とは全てを思い通りにできることだと思っていた。しかし、今の私は違う。自由とは、不完全さを受け入れ、その中で自分らしくあることだ。言葉が伝わらないもどかしさ、失敗した悔しさ、計画通りに進まない苦しさ――それら全てが私にとっての自由の証だ。自由とは、限界を超えることではなく、限界の中に可能性を見出すことだ。不完全な私だからこそ、これからの人生における無限の可能性がある。
2025年の私へ。どうか迷うことを恐れないでほしい。迷うことで見つかるものがあり、停滞するからこそ気づける景色がある。未来を完成させる必要はない。未完成だからこそ、人生は豊かになる。
未完成のままでいる自分を愛し、自由と可能性に満ちた旅路を歩み続けてほしい。そして、その一歩一歩が、どんな形であれ、あなた自身を作り上げていくのだと信じている。
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