溶けてなくなりたいと思っていた私を励ました、21歳、キューバ1人旅

異国の海に溶けてなくなりたいと思っていた。
それは“死にたい”という希死念慮よりもっと淡く曖昧な形をした、“いま眼前に広がるこの海の一部になりたい”という憧れに近い慕情だった。
2018年の夏、私はキューバに一人旅をした。 留学先のアメリカ・ロサンゼルスからメキシコを経由して首都ハバナの空港に降り立つと、スコールが過ぎ去った後の生暖かい空気が私を迎えた。
大学4年生の春、ロサンゼルスに約6ヶ月間の語学留学をした。大学では卒業前に留学を経験している人が多かったとか、専攻していたベトナム語以外に英語をきちんと学び直したかったとか、挙げようと思えば理由はいろいろあるけれど、その根源で湧き上がり私を突き動かしていたのは”置かれた環境を変えたい”という願望だったように思う。
そのとき私は、とうてい一人では抱えきれない生きづらさに苛まれながら日々を生きていた。自己肯定感が低いまま育ち、それゆえ周りの評価でしか自分の価値が分からず、頑張りすぎていつも疲弊していた。部活にバイトにゼミと、身を置くコミュニティでは友人に恵まれたけれど、その誰にもなぜか心を開くことができず孤独は深まるばかりで、さらにはその悩みが家族とのかかわりに根を下ろす問題だと知り、そのことが苦しくて悲しくてたまらなかった。どうやって立ち直ればいいのだろう。それから、どう生きていけばいいのだろう。私は自分の足で立っていたいのに、その地面が砂になってサラサラと崩れていくような、そんな危うさの只中にいた。
誰も私を知らない場所に行って、徹底的に一人になりたい。いつからかそんな願望を抱くようになっていた。私自身の生きづらさや孤独に、誤魔化さずに正面から向き合う時間が必要だった。
漫才師・オードリーの若林正恭さんが数年前に一人でキューバを旅したエッセイを読み返す。クラシックカーの往来、青いカリブ海、革命広場…。共産主義国であるがゆえにgoogleやSNSの多くが利用できず、強制的に社会からの繋がりが断たれる。ここなら、と直感が叫んでいた。学期の間の休みにあわせて航空券とホテルを予約し、現地でも見られる地図のアプリをダウンロードした。
そうして訪れたハバナの海は、留学先のロサンゼルスとは違う、静謐な温かさをたたえていた。
ハバナ市内の海沿いに延びるマレコン通りには、夕暮れ時になると住人が集まってくる。夕涼みをしながら語らったり、楽器を弾いたりと日没までの時間をみな思い思いに楽しんでいた。アジア人の観光客は少なく、とりわけ私のような1人旅の若い女性が珍しかったからか、物売りやナンパ目的と思しきキューバ人が次々に話しかけてくる。それらをかいくぐってなるべく人の少ない堤防の縁に座り、目の前に広がる海をしばらくぼうっと眺めていた。
夕焼けと一緒に、この海に溶けてしまえたら。 当時、生きづらさの分析や対処法が書かれた本を読み漁って知った「ライオンの吐き出し」という心理療法を思い出す。目の前にゴミ箱を思い浮かべて、そこにライオンが咆哮するように思い切り負の感情を吐き出すというものだ。 私は潮の香りがする空気を大きく吸い込み、熱を持った息をほう、と吐いてみた。 太陽はぐんぐん水平線に吸い込まれ、街灯の少ないハバナの空が熟れたぶどうのように染まっていく。 もう一つ、今度はさっきよりも長く息を吐き出す。思えば意識して深く呼吸をしたのはすごく久しぶりなように思えた。
ハバナを経つ日の朝はよく晴れていて、ホテルで朝食をとってからもう一度マレコン通りに立ち寄った。 青い絵の具をこぼしたような海に反射する朝日が、目を射るように強くきらめいている。それらを記憶に焼き付けようと目を凝らしていると、サルサダンサーだというキューバ人の男性に話しかけられた。
「あなたは美しい。僕と一緒に踊ってほしい」とまっすぐ目を見て言われ、答えあぐねている間に手をとられ、彼のリードでたらめなダンスを踊った。やがて浅黒い肌に浮かぶ汗のしずくが、ハバナの太陽を跳ね返してきらきら光っていた。
キューバに行って、海が綺麗だった。
ただそれだけのことが、今日までの私を何度でも励ましている。
今でもカリブ海のどこかに、21歳の私が吐き出した悲しみやたどたどしく踊ったサルサのリズムが、透明にぷかぷかと漂っていることだろう。
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