自炊嫌いをやる気にさせてくれたのは、母の味と一冊の本だった

できれば自炊はしたくない。
どこかで調達するか、味覚が合う人に作ってもらいたい……と、特にここのところは毎日思っている。今日はお惣菜でいいかしらん、とタイミングを見計らう日々。何も考えずに作れるシンプルな炒め煮や具だくさん味噌汁といったレギュラー陣にホッとする日もあるが、毎日はちょっと遠慮したい。
SNSから勝手に流れてくる話題のレシピや美味しそうなメニューたちが目に入るたび、食べてみたいなあ、と思う。たまに気が向いてレシピを眺めてみるが、9割方、実行に移されることはない。段々「簡単!」と銘打たれているものすら着手できない自分が悲しくなってきて、なるだけ文字を拾わぬうちにスクロールするようになる。
しかし今日は違った。
昨晩、食べたいものがふっと頭に浮かんだ。
それはいつものことなのだが、それを無下にせず、翌日買い物へ行き、必要な材料を買い、帰宅後息つく間もなく台所へ。夕飯準備には早すぎるが、それを待っていたら気持ちがしぼんでしまう……と、常に風前の灯火である料理モチベを丁重に扱いながら、なんとか最後まで走り切ったのである。
肉団子スープ。
SNSで気になった……とかではなく、いわゆる「おふくろの味」。母が作る料理のなかでも、特に好きなメニューのひとつである。
本当は春雨もダブルセンターくらいの立ち位置で、私自身もスープの染みた「麺」をズゾーっと啜るのが大好きなのだが、想定の価格帯じゃなかったのでひよってしまった。代わりにセールになっていた大根を。胃にも優しいし、体温上昇にも効果的らしいから、今の私にはむしろちょうどいいってことで。
肉団子は好きなのに、調味料を入れて練って丸めて……ということすら、長いこと億劫になっていた。しかしなぜか、昨日から今日にかけては「やる気」がみなぎっていた。
なぜか、とは言ったものの、少しだけ思い当たる節がある。
肉団子スープが頭に浮かんだ日のランチに、実家で母お手製のニンジンポタージュをごちそうになっていたこと。そして、ちょうど平松洋子さんの食エッセイを読んでいたこと。
この2つが奇跡的に重なったことで、やっと私の心が動いた。
母の作るポタージュは、どんな野菜がメインでも美味しい。にんじん、かぼちゃ、ブロッコリー……等々。
どれも余計なものは入っていない。塩気も油分も気にならない。感じられるのは食材の栄養と旨味と、作り手の丁寧さと温かさ。
これが毎日食べられる父はいいなあ、と一瞬思うが、いやいやと思い直す。これを自分で作れるようにならないと。夫である父はさておき、子どもである私はいつまでも母頼みではいけない……と。
そして読んでいたのは、平松さんのエッセイ『いわしバターを自分で』。
平松さんの食エッセイは以前から拝読しているのだが。今回は特にストンと自分のなかに入り込んでくるような心地がした。彼女の食べ物に対する眼差し、そして軽やかに料理をする様子に、私の心もほぐれていくようだった。
(もしかすると、料理の写真が無いのもよかったのかもしれない。自分のペースで想像できるし、完璧なビジュアルを見せられて「自分には無理」と思わされることがないから)
その結果、ちょっと作ってみようかな? という気持ちが1㎝ほど、ニュッと土の中から出てきたような気がした。
しかし、それはまたすぐに引っこんでしまうことを知っていた。だから慌てて手を伸ばし、すり抜けないことを祈りながら一夜を過ごし、特価の鶏もも肉や普段の定番である鶏むね肉を振り切ってまで、肉団子を作ったのである。
残念ながら、これを機に「料理大好き人間」へ変身! とはなっていない。これを書いている今はスープを作った翌日だが、もうすでに極力台所へ行かない方法を考えている。
しかし食べたいし作れるかも、という気持ちを尊重し、それが消えないうちに完成まで持っていけた(そして美味しくできた)という成功体験を得られたのはかなり大きい。
家計的な効果を最優先するなら、特売価格の食材で美味しいものを作るのが理想。しかし無理のない範囲であれば、自炊を少しでも楽しめるほうを選びたい。そのくらいの余裕を見せているほうが、「作れるかも?」という気持ちの芽は出てきてくれるかもしれないから。
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