「こんなのAIに書けない」それって褒め言葉?感じた違和感の正体

「君の文章面白いね!こんなのAIに書けないよ!」
本人は褒め言葉で言ってくれたんだろうが、私はこの言葉に腹が立った。当たり前だろ。と。
私は人間だ。日々抱えている生々しい感情を吐き出すように、とある文章を書いた。書いては消してを繰り返しているし、体裁を整えるのに時間もかかっている。その成果物をAIと比べられた出来事だった。
5分で読める記事は5分では書けないし、10秒で見れる絵は10秒で描けない。私が何日かけてこの文書を書いていようが、あなたは1分で文末まで辿り着くだろう。この当たり前のようなバランスが崩れ始めている。5分で読める記事は10秒で生成され、10秒で見れる絵は1秒で生成される。タイパ重視クリエイター「AI」の活躍が、そんな新しい当たり前を作ってしまった。もちろん、生成文章に誤字脱字は無い。
そんなAIの凄さを知った上で、ある人は「AIには書けない」という感想を私に言ってくれたのかもしれない。でも、私的には褒め言葉として受け入れられず、むしろ、貶されているように感じた。どこかもやもやした。
2月の頭、創作書道を体験した。先生が墨で生み出す文字は読めない。習字だから文字には変わりないが、「花」と題されたその書はただの線や点に見える。お世辞にも「花」とは読めないが、どこかかっこいい。見た感じ簡単に生み出せそうだし、私もやってみるか、と真似て筆を動かしてみた。すると「文字を崩す」が難しいことに気がつく。いつも書いている、いわゆる「読める文字」を書くのは簡単で、そこにどう自分なりのアレンジや力加減、絵心的な創作欲を出すのか、がイマイチできない。創作書道を生み出すにはセンスや独創性が必要だと感じた。
体験後、再度先生の書を見ると見え方が変わった。「花」という文字を先生がどう見つめて、何を思って最終的に半紙の上に「一」や「⚪︎」に見える記号を墨で置いたのか。想像や考えが深まって、作品の味わいが増した。
この出来事の中に、AIと比較された時の不快感を紐解くヒントがあるような気がした。
読みやすく誤字のない文章生成というのはAIの得意分野だ。では苦手分野は何かというと、「いい感じの間違い」ができないところだと私は考える。不完全で不器用なのが人間だ。だからこそ間違える。間違いを起こすから、訂正という過程が生まれるし、間違いをいっそのこと美点と捉えて残すことや、あえて間違いを発生させることもできる。実際、創作書道で生み出される文字は美しく感じたが、その文字をそのまま履歴書に書くと誤字には違いない。
絶妙な崩しや汚れ、失敗を含んだ作品作りはこの先も生身の人間にしかできないことだろう。そして、その作品を生み出すまでの過程を想像することも、同じ人間にしかできないことだろう。
AIとの比較を受けて抱いた不快感。その正体は、「もっと私の過程を尊重して欲しい」そんな気持ちから湧いてきた気がする。自分の作ったものをもっとしっかりと観て欲しかったのかもしれない。時間をかけてアイデアを込めて作った、その過程を感じ取って欲しかったのかもしれない。
AI作品と人の手で生み出された作品。その見分けがつかなくなってきている。はっきりとした違いは完成までの物語だ。どんな手間暇をかけて、どんな思いをその作品に込めているのか。同じ人間が作り出したものだからこそわかる部分、逆にわからない部分。そんな背景を読み取ることが受け手の責任なような気もするし、それこそが作品の楽しみ方な気もする。
AIの登場によって、芸術作品の味わい方を考える時代がきているのかもしれない。
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