市民権を得たAIは便利。だからこそ振り回されないようにしたい

気づいたらアッという間にAIが市民権を得たように思う。
職場でもChatGPTが導入されたし、文章や会話はもちろん、音楽や画像まで作成してくれる便利なツールだ。欲しい情報や条件を入力するとすぐに回答をくれるし、その間に別の事が出来たりする。タイパと叫ばれる現代にはこれほど必要とされるツールもないだろう。
でも、どこかで無意識にAIが使えるように情報を切り替えたり、AIの作ったものなのかを見極めるAIなど、このツールがこなすべきタスクを減らしてくれているのかは疑問が残る。
自分で調べるなら気になる単語から初めてその過程で理解が違っていることを知ったり、新しく気になることが見つかったりするはずだ。AIに協力してもらい作った文章や画像をAIで作ったとばれないように人間が加工するのと、初めから人間が作るのはどちらがいいんだろう。
私が何かを知りたいと思うとき、まずはSNSやネットで検索することが多い。食べたい料理や地名などを入力して検索する。検索結果として表示されるのは、美味しそうな料理や風景の写真、その場所に足を運んだ人の感想をつづった口コミなど、私以外の誰かが生み出した情報だ。私はその中から同じような感覚や好評な評価を見て、食べてみたい、行ってみたいと感じる。
それがAIになると、どうなるのだろうか。細かい仕組みは分からないけど、誰かの生み出した情報をAIが取り込んでそのAIが生み出した情報が私に表示されるようなイメージがある。こうやって書くと、なぜわざわざAIを挟むのか不思議だけど、たくさんすぎる情報からより良い情報、自分に合う情報だけを優先して見れるようにだろうか。
私のともに届く情報は、文字と画像。それはきっと誰か人の生み出した口コミでも、AIの生み出した情報でも変わらない。それなのに、AIの生み出した情報に対して少しだけ拒否反応がある気がするのは、なぜだろう。
私は、人の生み出した情報なら安心なのだろうか。それとも、AIの性能を疑っているのだろうか。この拒否感は、情報を生み出した誰かに対する信頼でも、AIに対する疑念でもなくて、自分で考える機会、過程をスキップしたことに対する、嫌悪感だと思う。
例えば、人間関係で私を利用しようとするような人と対峙するときに、似ているのだ。容姿が整っている、頭がいい、年収が高い。相手を判断する価値はいろいろあって、同じシチュエーションで同じことを言われても、相手によっていいように使われているなと感じる時とそうでない時がある。それは、相手とそれまでにどんな時間を過ごしてきたかによると思う。
AIと友達になる事はないし、AIに私を利用しようとする意思があるわけではない。悪意がないからこそ、見逃してしまいがちだが、AIの生み出した情報を無意識に信じることは自分で考える過程をスキップしてしまう。
確かに、私にあった欲しい情報だけを表示して時間を作ってくれる優秀なツールかもしれない。でも、ツール故に、悪意がないからこそ、主体は自分であることを忘れずに、ツールに振り回されないようにしたい。
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