報道番組が大の苦手だった。ひしゃげた車や黒煙をあげて燃える家を目にするたびに、心臓がバクバクして呼吸が苦しくなって、胃が痛くなった。両親は無理強いしてくるようなタイプではなかったため、我が家のテレビで報道番組が流れていることはほとんどなかった。

2011年の3月、わたしは小学校の低学年で、発災当時は家にいて、あまりの出来事にぐらんぐらんと揺れる照明を呆然と見つめていた。揺れがおさまってすぐ、一緒にいた母がリビングのテレビをつけた。「ニュース見るのしんどいでしょ、自分のお部屋にいて」と言われた。でもすぐにひとりになるのは怖くて、母の背中に顔を埋めるようにしてくっついていた。

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母は黙ってテレビの画面を見つめているらしかったけれど、突然「あ、」と声をあげた。なにがあったのかと母の背中越しに見たテレビ画面には濁流が映っていた。最初は状況が飲み込めず、しばらく見つめているうちに津波であると理解した。怖くて、でもこんな安全な場所にいるわたしが怖いなんて思って良いのか、なんて葛藤して、気がついたら真夜中になっていた。

キャパオーバーとエネルギー切れを同時に起こして眠っていたらしかった。相変わらずリビングのテレビは報道番組を流していて、真夜中なのに母の目はぱっちりと開いていた。深夜3時を過ぎた頃、父が帰ってきた。会社から歩き通してきたらしかった。次の日も、その次の日も、リビングでは報道番組が流れ続け、わたしはあまり居心地がよくは感じないものの、次第に慣れていった。

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年を重ねると報道番組を普通に見られるようになった。ひしゃげた車も黒煙をあげて燃える家も、どこか一線を引いて見ていられるようになった。でも、震災の映像も戦争の映像も苦手だった。できることなら見ずに過ごしたかった。

そんなとき、修学旅行で東北に行くことになった。推薦されて委員になった。会議でも中心になりがちで、それなりに先生ウケがよい生徒だったわたしは、委員長になった。なってしまった。報道番組の映像ですらしんどいのに、きちんと学べるわけもない。結果、心残りが多く残る修学旅行だった。住んでいるひとには申し訳ないけれど、ずっとその土地にいることが怖かった。それでも、何かをきっかけに再訪しなければ、一生残るトラウマになってしまいそうだと、なぜかはっきりとした確信があった。

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大学3年の秋、テーマに震災を据えた映画を観た。好きな俳優が出ているから、好きな監督が撮っているから、というなんともミーハーな理由で観たあと、その週末に石巻を訪れた。作品のロケ地を巡るという理由をつけて訪れた石巻は、穏やかで空が広くて静かな街だった。あんなに怖がっていた6年前、わたしは何を見ていたのか。ロケ地を巡ると、近くに震災に関連した場所がたくさんあった。えいや、と勢いをつけて足を踏み入れて学んだ。能動的に学ぶと、報道では目にしなかった側面も見える気がした。ひたすら歩いて移動した。疲労の溜まった足と気がついたらペコペコになっていたお腹を癒そうと訪れた食堂の鯖ラーメンとジンジャーハイの味が忘れられない。公園の展望台から眺めた海は凪いでいた。眺めながら祈った。

その秋を越えた3月11日。わたしは報道番組を観ていた。石巻が映るたびに、話題にされる出来事ひとつひとつの解像度が高くなっているのを感じた。間違いなくまた訪れたい場所、石巻。あの震災から流れた月日は否応なく景色もひとも変える。