自分ごとに捉えられなかった震災。違和感を許すまでに時間がかかった

当時私は中学生で、あの日は定期テストの最終日だった。最終日なのにテスト後に遊びに行くなどと言った予定は何もなく、ただ家に帰ってゲームで遊んでいた。
突然、隣の部屋にいた祖父が突然こちらの部屋へと走ってやってきた。
「東京で大地震があった!」と祖父は慌てた様子で言う。急いで祖父のいた隣の部屋のテレビを見に行くと、テレビ画面には東北が映し出されていた。(祖父は国会中継を見ていたらしい)しばらくすると、私の住んでいた地域でも揺れがあった。東北が震源にも関わらずかなり強い揺れに驚いたことをよく覚えている。
それからいつもとは違う日常が始まった。24時間震災の報道が続き、緊急地震速報が何回かなった。その度に妹は怖がったし、私も机の下に潜ったりした。学校でも地震の話題で持ちきり。私も関東圏に住む友人に無事かどうかの確認の連絡を取った。また、外国人の友人が帰省先の母国から帰ってこなくなるなど、それなりに影響はあった。
頑張ろうとか、絆とか、ボランティアとか、そんなムード一色の1年間だったと記憶している。誤解を恐れずに言うと、みんななんだか仮面をつけているような、そんな同じ方向を向くことを強制されているような、自分でも説明のつかない感情に襲われた。
その年、学校が作文コンクールが開催された。テーマは「あたりまえとは」だった。
震災を強く意識したテーマ設定であることは明白だ。私は敢えて震災には触れずに作文を書いた。「自分たちが日常と思っていることは他人にとって非日常」をテーマにした心温まるホームドラマ。そんな作品にしたと思う。
先生たちの意に沿わない作文内容であったと思う。それなのになぜか佳作を受賞した。この頃はまだ中学生。震災の話題に触れるのが偽善者のように感じたり、少し怖かったり気がしたのだと思う。たぶんそしてそれは、私だけじゃなかったのだろう。
上京してから、東北出身の友人ができた。明るくて人気者で、ポジティブな話題しかその子からは聞いたことがなかった。彼女が震災の話をしてくれたのは就活の時だった。「震災を話題に出せば内定が出るかもしれない。でもそれは申し訳なく感じる」彼女のその話を聞いて、私はやっと、中学生当時に覚えていた違和感を許してあげることができた。それからは、防災の研究をしている子に出会って話を聞いたり、ボランティアに行こうかと検討してみたりと、自分ごととして捉えることができた。
震災の影響は未だに色濃く残っていると思う。昔は阪神淡路大震災の話を「あの時はね」なんて話す人のことを疑問に思っていた。経験をしていない話をされても正直ぴんとはきてはいなかった。
でも今は積極的に「あの時」の話をしている。震災の記憶がない世代の人たちもいるし、海外に行くといまだに震災の話を引き合いに出して「日本は大丈夫なのか」と言ってくる人もいる。
わずかながらだが、あの時の非日常な日本の一年を経験している私には話していく義務がある。そんな風に今は思っている。
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