人生において「これは忘れられないだろうな」という光景は幾つかあるが、そんな景色の一つとして、私は26歳で教室で涙を滲ませたあの日を思い出す。別に悔し泣きではない。あれは綺麗な感動の涙だった。

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当時はコロナ禍。アジア人差別がヨーロッパで巻き起こり、国によっては病院送りになるほどの痛ましい暴力事件まで起きていた。そんな最中、26歳の私は、ヨーロッパのある国に住み、その国の大学院の授業を受けていた。

コロナ禍ということもあり、講義もクラスメイトとのディスカッションも発表も、すべてオンラインで行われていた。しかし、課題のための資料集めに図書館に行くことは毎日のようにあり、そのたびに、息を呑んで、緊張しながら外に出るのだった。幸い、暴力や直接的な差別は受けなかったが、歩道ですれ違う直前にに「アジア人だ」と言われて大回りに避けられたり、若干の嫌みめいた言葉を受けることはままあった。暴力を振るわれたら怖いから、私は何も言わずに過ぎていく。そうして無事に目的地にたどり着く。他国で起きる痛ましいアジア人差別はその国で聞いたことがなく、「人権意識の高い国で良かった」、と感謝までしていた。

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そんなある日、またいつものように画面越しにクラスメイトと授業を受けていた。その時のテーマは、「植民地主義」についてだった。

授業の趣旨は、「植民地の時代は何百年も前に終わったが、現代にも植民地主義の思考が残っている」「現代は、人類が地球資源を搾取して環境破壊をしている。その搾取構造は、『現地人、現地の資源』を搾取していた植民地時代と変わらない。『自然の搾取』のみに切り替わっただけだ」というものだった。

正直私は、「ふーん」としか思わなかった。人間同士の搾取から対自然へ。確かにそうだな、と。

しかしヨーロッパの生徒の発言は違った。

「コロナ禍を通じて、西側諸国のアジア人への差別が露呈した。私たち西側諸国は『植民地時代は終わった』『人種平等だ』と言いながら、潜在的には、未だに他の人種を見下してきた。それが露呈しただけなんだ。これは恥ずべきことで、良くないことだ」

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私はハッとし、気づけば目に涙が滲んでいた。

外を出るたびに、緊張が走っていたこと。
毎日アジア人差別の悲しいニュースを見聞きし、心を痛めていたこと。
「この国では差別が無いから大丈夫」。そう思い込んで、ちょっと傷つくようなことがあっても、気のせいかな、なんて気づかないふりをしていたこと。

しかしそれらは気のせいではなかった。それを明言し、否定したクラスメイトの真摯な姿勢と温かさに、私は心を打たれたのだった。 

私の涙を見たからか、その後も立て続けにヨーロッパの生徒たちがコロナ禍のアジア人差別に言及し、強く批判をしてくれた。私は日本を出るまで、これほどまでアジア人が差別されていたことを知らなかったし、同時に、その事実がある上で、これほど温かい眼差しがあることも知らなかった。新しい視点が私の目に加わった瞬間だった。

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時を経て、私は今、当時とは別の国にいる。正直、当時いた国よりアジア人への見下しはもっと酷くて、なんだかなあと思うことばかりだ。中国人と見なされてボロクソに言われて、日本人と分かった途端手のひら返し、というシチュエーションもある。これもやはりなんだかなあと思う。私は一切行動を変えていないのに、人種が変わっただけでここまで扱いが変わるとは。ご機嫌取りのつもりかもしれないけれど、全く良い気はしない。むしろ、中国の方の生きづらさを想像し、心が傷つくまである。観光客には色々な層があるかもしらないが、ビジネスマンの中国人がどれほど優秀か、一緒に働いたら分かると思うのだが。

あるとき、公園で小学一年生くらいのアジア人の女の子に話しかけられた。私はその子の言葉が分からなかったので、「私たちは日本人だよ。あなたはどこから来たの?」と聞いた。

その瞬間少女は黙り、少しの沈黙の後、「韓国」と言った。私は、「アニョハセヨ」と言ってみた。彼女はキョトンとし、困り顔のまま去っていった。後々、彼女の親との会話を聞いて、彼女は中国人だと分かった。

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その少女の嘘に、どれだけの背景があっただろう。人を色眼鏡で見ることが、どれほど相手を傷つけているのだろう。偏見は、令和の今も無くならない。彼女の精一杯の嘘を思い出すとき、私はチクリと心が痛むのであった。