「障害者」や「障害」に対して、私は偏見を待っていないと言いつつも心のどこかで「私とは違う」と一線を引いていたのではないだろうか。あの頃を振り返って今更気づいた「未熟な自分」を、私は決して忘れてはいけない。

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私が通った小中学校には特別支援学級があり、そこに在籍する生徒と一緒に授業を受ける「通級」が行われることもあった。しかし日常で見かけることは少なく、学校行事などで見かけては普段はどこにいるのかと考えた記憶がある。

そんな私が「いわゆる障害児」と関わったのは3回。4年生が2回、6年生で1回だ。

10時過ぎ、3階まで階段昇降機でお母さんと登校するS君は、教室の一番後ろの席に座る。車椅子の大きさや大人の背丈に合わせて作られた背の高い机はクラスに溶け込んでおり、またS君も休み時間はクラスメイト数人に囲まれ、いつも通りの日常が送られていた。付き添いの方の挨拶と共に現れるS君に、授業中の担任と児童は挨拶を返すのみ。自然と「明るい無視」が行われていた。S君は学校行事や社会科見学に学芸会、可能なものはすべて参加していた。ヘルパーさんと適宜交代しながらも、お母さんはS君とずっと一緒にいた。

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また、学級新聞の打ち合わせで同級生の家にお邪魔した際、彼のお兄さんと出会った。私たちとお兄さんの間に会話はなかったが、同級生はお兄さんに対し楽しげに話をしていた。それを聞くお兄さんも楽しそうだった。お兄さんは一生懸命思いを伝えており、同級生もまたその思いを大切に受け取っていた。2人の間にはしっかりとしたあたたかな絆があり、私は彼らが共に育っていることを感じた。

6年生になって初めて「通級」というものの存在を知った。担当の先生に連れられてやってきたT君は、担任が私を差して言った「T君の席はえみりさんの隣です」に対し「エミリー!?」と顔を輝かせていた。T君の大好きな『機関車トーマス』の登場人物だそうで、「エミリー」について楽しげに教えてくれた。特別支援学級の先生が「今は先生のお話を聞く時間です」と言うと声は止んだが、顔や手足は自由だった。私は図工の時間が苦手なのだが、T君の繊細な絵を見られて、T君とお話できて、嬉しかった。

その頃の私は、彼らに対して、いったい何を思っていたのだろうか。口に出さなかっただけで、「私が彼らのように不自由でなくて良かった」と心のどこかで思っていたのではないだろうか。

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ある時私は交通事故に遭い、身体障害者手帳を手にした。「肢体不自由」などを得たことで、「日常生活の様々なこと」に第三者の手助けを要するようになった。どんなに些細な手助けであったとしても「自分の人生を他者に手伝ってもらう必要がある」という事実は、いつのまにか私と共に育っていた「できる限り自分のことは自分でこなす」という私のプライドを切り裂くには充分すぎる代物だった。さまざまな動作が私には難しく感じられ、中にはリハビリで回復しきれないものもあった。そうなると、人に頼むしか打開策はない。私は次第に「障害を得て社交性が増した自分」を呪うようになった。

しかし。

切れ切れになったプライドは、拾い集めてくっつけたらいい。できないことを隠さず明るく頼って、感謝さえすれば「手伝った相手は気がいい」のだと気づいてから、私は『ありがとう』の5文字を携えて生きづらい世の中を生きてゆく覚悟ができた。

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きっと今の私は「誠実に生きてはいない」だろう。ひねくれた生き方もしてきたが、それでも「ありがとう」と感謝を伝えさえすれば概ね手伝ってもらえることを、私はこの身をもって知ることができた。

「ありがとう」それは大切にされるべき重要な言葉だ。私はこの言葉を胸に、TPOに準じた用い方をしながら生きていく。願わくば私と同じように「生き方」で思い悩む人の力になりたい、と思いながら。