書くのも撮るのもやめない。ただSNSに載せないだけ。そして得たもの

人生の面白い瞬間、美しい瞬間。
それらを写真や言葉で切り取って残すのは、私の"癖"のようなものです。「でもそれ、SNSにはあげないよね」と、古くからの友人には言われてきたものですが、この1年、私はそれらをよくSNSにあげるようになりました。
SNSに写真や文章をあげることに、初めは抵抗感がありました。誰が見るか分からないし、どんな人生の状況の人が見ても心地いい投稿なんて、できるわけがありません。それなら、そもそも投稿しなければいいと思ったのです。
けれど、昨年から本格的に動かし始めたアカウントは、別でした。フォローし合うのは、実際に会った人だけ。その人たち全員を親しい友人に登録するので、特に鍵をつけたアカウントではなくても、誰が投稿を見るのかは自分で把握できます。
ちょっと大きめの、けれど親しい人しかいないLINEグループにメッセージを送るように、私はSNSに写真や文章をあげるようになりました。
楽しかったこと、辛かったこと、最近考えていること。日常をひけらかすような投稿はしてこなかったつもりです。でも、自分の内面をさらけ出すような投稿が多かったように思います。
もちろん、何でもかんでも載せたわけでもありません。友だちが見た時に「ためになった」とか「インスピレーションになった」と思ってもらえるような事柄をシェアしてきたつもりです。
けれど、そんな風に自分の想いや人生の出来事をシェアするうちに、何かに遭遇した時に、SNSに投稿しないと気が済まないようになってきたのです。
新しい違和感が、私の中に芽生えました。
親しい人に、自分の頭の中や心の中をシェアできることは、確かに面白いことではあります。SNSがある現代だからできる、人との繋がり方でもあるでしょう。
でも、物事の見方は時間と共に変化をしますし、たとえSNS上では”親しい友だち”に登録していたとしても、お互いに全てを分かち合っているわけではありません。
楽しそうに生きているけど、本当に楽しいのか。幸せそうに生きているけど、本当に幸せなのか。それは、結局のところ、私には分からないことだと思うようになりました。
そんな相手に、熟成させていない、思いつきのような私の”呟き”をシェアすることで、嫌な思いをさせるかもしれないし、誤解されることもあるかもしれない。そう思うようになったのです。
何かが起きた時に、その時の感情をすぐにアウトプットすることに、次第に危うさのようなものを感じるようになりました。
とはいっても、もともと、人生において残したいと思った瞬間を撮ったり書いたりするのが、私は好きです。その行為自体をやめるのも、それはそれで不自然ではありました。そこで、私はただSNSに載せることだけをやめるようにしました。
自分だけが見るカメラロールやノートには、日々の想いや体験を積極的に残していきます。けれど、それらをリアルタイムで外に発信することからは、卒業したのです。誰かへの感謝を呟く時は別として、心に浮かんだ考えや想いをすぐにSNSに載せることを、私はパタリとやめました。
初めは、自分の経験をすぐにシェアしないことを、もったいないように感じることもありました。「すべきことをしていない」感覚に陥ることすら、あったほどです。
でも、そんな時には、スマホすら持っていなかった子ども時代を思い出すようにしました。楽しいことがあったら? 悲しいことがあったら? 友だち全員に全てを話したわけではありません。むしろ、ごく親しい数人とだけ分かち合ってきたはずです。それは決して、もったいない時間ではありませんでした。
もっとも、大人になると、毎日顔を合わせられる友人などいないのが現実です。だからこそ、私は自分自身といい友だちにならなければ、と思うようになりました。
考えの途中経過も、感情の変遷も、全てを知っている友だち。SNSに多くを投稿する生活から卒業した結果、そんな”自分”という友だちに、やっと出会えた気がします。
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