色眼鏡を通して生まれる偏見。ここから生まれる負の産物に勝ちたい

私にとって、「偏見」は色メガネを通して生まれてくる負の産物だ。
幸いなことに、「女だから」と性別による偏見を持った見方をする人に相対することはなかった人生だ。でも、昔から「みのむしは○○そうだよね」と勝手に偏見を押し付けてくる人はそれなりに多かったと思う。
私は、それを直接伝えてくる人が大嫌いだ。なぜなら、言葉をまっすぐ受け取ってしまう性格上、その言葉に縛られて苦しくなってしまうし、そう言われた理由を探して疲れてしまうから。
例えば、「彼氏いそう」という言葉。お世辞ともとらえられるこの言葉を、私は人生で聞き飽きるくらいに言われてきた。ずっとアイドルのオタクをしてきて、ここ最近まで恋愛とはほぼ無縁の人生を歩んできた私にとって、この言葉は呪縛でしかなかった。恋人がいるのが当たり前、身近に好きな人がいるのが当たり前、そんな現実を押し付けられた感覚で今でも苦しめられている。
そして、「彼氏がいない」ことにネガティブな感情を持っていないわけではないので、否定するときに自分自身をも否定している気分になり苦しめられてしまう。
「真面目そう」という言葉もそうだ。私は全く真面目に生きているつもりがない。仕事も適当にネットサーフィンをするか、競合他社との比較という名の散歩をして1日つぶすこともしばしば(指示された仕事は全うしておりますので、お許しください)。人生で1度行ってみたい場所としてずっと挙げてきたのは真面目とはかけ離れたクラブ、ゲイバー、ホストクラブだし、静かな場所は苦手。
だから「本当の私は、真面目どころかかなり変でねじが飛んでいる人ですよ」と主張したいけれど、何故かこの言葉を言われるたびに、何故か窮屈な気持ちになって、素を出すことにためらいを感じてしまう。
そして、これらの偏見が私に届いた後、私の中では“自己分析”と本当の自分が出せていないことに対する“自己嫌悪感との闘い”が始まる。なぜ私は間違った見方をされてしまうのか、おしゃべりなくせに自己開示がうまくないのかと考えて、理由を探しては自分を見失いかける感覚でへこんでしまう。
でも、私は偏見に基づく発言をしてくる人に対して、怒りや憎しみの感情を持っているわけでもないし、偏見の生みの親である色メガネを捨ててほしいわけでもない。色メガネは、むしろ大切にするべきだとも思う。色メガネがあるからこそ、“好き”や“魅力さ”、“愛おしさ”といった色めいている感情もあると思うし、それを共有してくれる人がいてこそ、私の世界も色づいていると思うから。
よくよく考えてみたら偏見のもとになる行動をとっている自分もいて、偏見を持たれてしまう原因が理解できないわけでもないから、“ある程度の諦め”がついている部分もある。
だけど、後になって冷静に考えれば理解ができるだけであって、言われた瞬間に苦しい思いをしてしまうことは変わらないから、できることなら聞きたくない。
きっとこの苦しさから逃れて、自分を守る1番簡単な方法は、“ある程度の諦め”を“完全な諦め”に変えて、他人からの否定的な評価を気にしない人になることだと思う。でも、それをしたら、無神経な人間になり、私も自分の色メガネで相手を傷つけてしまう「加害者」になってしまう気がして、どうしても手を出したくない。
私は、自分が傷ついた分だけ相手を気遣える人間になりたいし、そうすることで自分も周りの人も守りたいと思っている。まずは自分が偏見を口に出さないこと、絶対に相手を傷つける言葉を言わないこと。次に、相手も自分も色メガネを持っているということを念頭に置き接することで、“ある程度の諦め”を持ち続けて、相手の偏見に縛られないように過ごすこと。
そういう意識を持つことをここに宣言したい。そして、いつか偏見からくる苦しみに打ち勝つことができる人になりたい。
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