怖かった。

年末年始の長期休暇に入り、友人のInstagramを見るのが怖かった。
そのころ、私は新卒で入った会社を早々に退職していて、アルバイトをしていた。
対する友人たちは年末のボーナスをもらい、きっと今ごろ豪遊しているに違いない。そう思うと、Instagramを見るのが怖くなった。そう思うのにいつもアプリをのぞいてしまって、案の定撃沈する。

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いっそのことやめてしまおうか。
そう思い立ち、キリのいい1月1日、私は思い切ってInstagramをやめた。
今年の抱負は「他人との比較をやめること」と心に決め、年が明けてすぐにそっとアプリをアンインストールしたのだ。

正月のおせち料理ばかりの日々に飽きてきたころ、夫と行ってみたかったカフェにパンを食べに行った。パン屋さんの雰囲気、コロンとしたパンの見た目、香り高いコーヒー。どれも大好きで、カフェの入り口をくぐる私の胸はどんどん高まる。悩みぬいて選んだパンとカフェラテを、いろいろな角度でパシャパシャと写真を撮る。写真の色味をアプリですこし加工して、Instagramを開こうとした。「あっ」と声が出て、アプリがないことに気付く。

Instagramは、これほどまでに私の生活に侵食していたのかと面食らった。私はこれまで、目の前のことを、目の前のこの愛おしいパンのことを、ほんとうは見ていなかったのではないか。

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振り返れば、こんな風においしいパンを食べたときのような幸せな気持ちを、私は保存しておくのが苦手だった。幸せになったすぐあとに他人の投稿を見れば、私の幸せなんてちっぽけに見えてきて、すぐに私は不幸に成り下がった。

そんな他人の投稿を見なければ、私の幸福は案外つづくのかもしれないと思うと、正月にInstagramを辞めて正解だと思った。

そのとき食べたクロワッサンは、太陽の光を受けてツヤツヤしていて、一緒に頼んだカフェラテにはかわいいハートが浮かんでいた。これは全部私のもので、私の中だけでひとり占めしていいんだと思うと、なぜだかじんときた。

これが私にとってのInstagramからの卒業だ。

卒業といえば日本では、学校生活が終わることや、何かをやめることなど、対象から離れるイメージがあるが、アメリカでは卒業式を「commencement ceremony」と呼ぶそうだ。「commencement」とは「始まり」を表す単語で、卒業式を「始まりの儀式」と捉えているという。終わることや離れることよりも、始まることに視線を向ける考え方が、なんだかいいなと思った。

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私にとって、Instagramからの卒業はどのような始まりになるのだろう。

自分だけの生活のなかで、私のスマホの中には私だけのカメラロールがある。指先でカメラロールをスクロールしていき、つい最近まで他人の投稿に「いいね」を押していたその指で、自分の写真に「いいね」を押していった。これから比較すべきなのはきっと、この中の写真たちと今の自分だ。そして昨日や今日に、そしてまだ見ぬ明日に、「いいね」を押していくのは誰でもない私なのだ。

クロワッサンをひとくち食べると、バターの香りが広がって、意識が目の前にぐん、と戻った。こんな強烈な刺激をこれまで通り過ぎてしまっていたなんて、もったいない。無性に悔しくなって、カフェラテのミルクの泡をぐっと吸い込んだ。あっという間に浮かぶハートはなくなったけれど、これが一番おいしい飲み方だと思った。