「女性が輝く職場」を「女性が歯を食いしばる職場」にしないために

「女の子だから、ピンクがいいよね」「女の子なんだから、おしとやかにしなきゃね」小さい頃から自然と聞かされてきたフレーズ。
無意識にピンクのものを選ぶようになり、座り方やふるまいががさつだと注意される。なぜか?という明確な理由はなく、「女の子だから」という一言で片付けられる。
私が性別的な役割への違和感を感じはじめたのは小学校くらいからだったろうか。
これは小学生だった頃のなにげないとある私の日常である。
買ってもらったばかりのゲームに熱中して、コントローラーごと体をバウンドさせる弟。ソファでくつろぐ父。忙しく台所で動く母。あまり要領がよくない私は明日までの宿題のために教科書とにらめっこ。
コンコンコン、ザクザクザク。夕飯時間に合わせて料理もラストスパートに近づいているようだ。
そんなとき、決まり文句が母から飛んでくる。「女の子なんだから、手伝って」。
カチン。ゲームを楽しむ弟だって、ソファと一体化しそうな父だっている。教科書とにらめっこしてる私がお手伝いに抜擢された理由が「女の子だから」の一言におさまることへの違和感。これが私の違和感アンテナのはじまりだった。
桜がひらひらと舞う春。成長した私は晴れて社会人デビューした。これからの未来へのわくわくとほんの少しの不安を胸に、着慣れないスーツに身を包む。
新卒で入社した会社は、女性の管理職登用に力をいれた、いわゆる「女性が輝ける職場」を目指す大企業。「イケメンがいる部署がいいな」そんな淡い期待とともに、どんな社会人生活が待っているのだろうと胸が高鳴る。
配属先の課長は、優秀な仕事ぶりが評価され、周りから期待されていた。
聞き上手で、相手の気持ちを汲みとるのがうまい課長と話していると、つい余計なことまでペラペラしゃべってしまう。
私にとって、課長とのおしゃべりは息抜きのひとときだった。そんな課長が定期的に口にする言葉。それは「私、結婚できないかも」。
ユーモアがあって、笑顔が眩しい課長が本気になればいつだって伴侶は見つかる。私はいつもそう思っていた。
予想通り、課長は素敵な伴侶を見つけ、ママになった。ママになってからの課長は仕事と育児の両立に奮闘の日々だった。急な保育園からの呼び出し、睡眠不足との戦い、仕事の穴埋め。まるでスーパーマンのよう。疲れが横顔から透けて見える。
そんな課長の姿をかっこいいと思う日もあれば、仕事と育児の両立の過酷さを経験したいと思えない自分もいた。
さらに職場で聞こえてる課長への言葉には、棘がある。活躍すれば「女のくせに」。仕事を優先すれば「子どもがかわいそう」。家庭の事情で仕事が滞れば「これだから女性だと」。
カチン、また私の違和感アンテナが作動する。
誰かが決めた、女性とは「こうあるべき」という暗黙の了解。それって、今を生きる女性の未来をぜんぜん後押ししてないよね?心の中で何度も思った。
「女性が輝ける職場」って女性が歯を食いしばって頑張れってこと?
子供の頃は知識も経験もないため、親や先生の言うことが「正しいのだろう」と、自然と認識する。やがて大人になり、経験や知識がつき、自分なりの答えや価値観を持つようになる。
そして自分と違う価値観に触れると、これまでの経験値から「自分が正しい」と思いこみ、新しい価値観や変化を受け入れにくくなるのではないだろうか。
小学校の頃に私が聞いた「女の子だから、手伝って」という経験は、我が家に限った話ではなく、ほかの家庭や学校でも起こっているのだろう。
だから、性別に応じたふるまいが暗黙の了解で求められる社会が作り上げられ、時代の変化についていけないのではないだろうか?
毎年更新される少子化、低空飛行のままの年収、どんどん値上がりする物価。
「こんなに高かったっけ?」そう思いながら、400円のキャベツをカゴに入れた日もある。
ただでさえハードモードな時代の中で、産めよ、育てよ、働けよ、と圧を与えてくる。うんざりだ。女性に課せられた役割は鉛のようにずしんと重い。
私が社会人生活で見たものは「ああなりたい」ではなく、「ああならなくちゃいけないのか……」という落胆だった。
凝り固まった性別的役割を飛び越えて、しなやかに生き抜くためには、女性が踏ん張るのではなく、社会の意識を変える必要性がまず先なのではないか?
私たち女性が頑張るんじゃない、みんなで変えていくんでしょ。私は声を大にしてそう伝えたい。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
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