よかった、出社しなくて済む……。

まだ抜糸したばかりの左手で、何とか松葉杖をつかみながら出社していた2年前の春、私はリモートワークに心から感謝していました。

◎          ◎

不注意によって左手を3針縫う怪我をした私は、その抜糸が終わった直後に、今度は階段から落ちて左足を捻挫。骨折の可能性もあると病院で言われるほどに膨れ上がった左足は、松葉杖なしでは到底歩けない状態になっていました。けれど、抜糸した左手では、松葉杖を握ることすらままなりません。

日常生活をまともに送れない状態になった私でしたが、ただの怪我と言えば、ただの怪我。仕事には行かなくてはなりません。

当時、私が働いていたのは、接客業というわけでもなければ、コロナ禍にはリモートワークも浸透した会社。けれど、コミュニケーションの希薄化を恐れてか、全員が出社することが決まりになっていました。

だから、通勤が困難という理由でリモートワークが許されたのは、特別なことでした。幸い、同僚たちは「そんな状態で出社するなんて、無理がある。安静にして、早く治さなくちゃ」と肯定的で、特別扱いを悪く言うような人は1人もいませんでした。

しかし、リモートでも仕事ができることが、再度実証される日々。出社って、そんなに必要なことかなと、改めて疑問に思うようにもなりました。当時、私の通勤時間は、往復でちょうど3時間かかっていました。

◎          ◎

松葉杖なしでも歩けるようになると、長時間通勤の毎日が再開されました。座ることもできず、ほとんどの時間をぎゅう詰めになって電車に揺られるのは、ひとたび離れたからこそ余計に過酷に私には思われました。

でも、隣で同じように押し潰されている人もまた、どこか別の会社の社員なのでしょう。そして、毎朝、毎朝、同じ苦行に耐えているのです。文句を言ってもしょうがないな、と諦めモードに入りながら、私はやり過ごしていました。

そんな折に、会社の社員全員が集まる日がやってきもした。今期の改善点や来期のビジョンについて全員で話し合う、年に1度の大会議の日です。

その中で、誰かが「コロナ禍でリモートワークが可能なのは証明された。なぜ未だに出社しなければならないのか」という疑問を社長に投げかけていました。私自身、出社の不合理さを身に染みて感じた後だったので、少しでも社長の意思が変わればいいと思って社長の答えを待ちました。

果たせるかな、社長の答えは、こういうものでした。「リモートでも十分に仕事ができる人たちがいるのは分かる。しかし、会社全体で見れば、営業職など、直接お客様に関わる人たちは、リモートでは仕事をしきれないのが現実だ。同じ会社で、同じビジョンに向かって仕事をしているのに、働き方で格差が生まれることへの懸念が拭いきれない。全員を、平等に扱いたい」

それは一理ある、と私は思いました。同時に、社会全体で見た時に、職種によって「絶対にリモートでは仕事ができない」人たちが常に存在するのも、当然のことだなと思いました。

◎          ◎

私は、左手と左足を怪我するという破滅的な状況に陥っても、職種のおかげで休みをとらず家で仕事をすることができました。

けれど、これが、リモートでは絶対に成り立たない仕事に就いていたら、どうでしょう。たったの1週間程度とはいえ、「怪我で出勤が難しい」という理由で貴重な有休を消費することになっていたのでしょうか。

それは、仕方がないことなのか、リモートワークが可能な職種を選ばない時点で諦めないといけないことなのか。私は、何だかモヤモヤし始めました。

出社が必須ということが改めて決まった会社から、「次の会社は、リモートワークが可能なんだ」と嬉しそうに言いながら去っていく人もいました。職業の選択は、もちろん自由です。リモートワークの合理性、利便性もよく分かります。

でも、そもそも「どんな職業を選んでも、いざという時はリモートで働ける」安心感こそ、社会に必要なのかもしれない。リモートワークに救われた私は、そう思うのです。