博物館の案内所で働いているが、案内所とは何だったか考えてしまうような、外とほど近い建物の入口にわたしは座っている。
雨が降ればその湿気った匂いや冷やされた空気を常に感じることができる場所だ。
雨の日にここに座って外を眺めていると、あの日の放課後にいるように感じるときがある。

梅雨になると高校の部室は湿気た木材の匂いに包まれる。今年150周年を迎えるらしい古びた校舎の隅、薄暗くすきま風の通る、けれど心地の好いこの部屋でわたしたちは部活動の3年間を過ごした。
雨の匂いはこの部屋の匂いだった。

「ひとり舞台」という意味の名前がつけられたこの部屋は、その名前の通り自由をわたしたちに与えてくれた。音楽を奏でることも、絵を描くことも、授業をさぼることも、そして肩の力の抜き方もこの部屋で学んだ。

◎          ◎

高校3年生の梅雨、いつもより雨の多い年だと感じていた。その日も朝は少し晴れ間が覗いていたのに、いつの間にかしとしと雨が降り始めていた。
わたしたちは部活のない日もだいたい何となく帰りに部室に寄って一通りおしゃべりをしてから帰路に着いていたのでその日もいつも通り部室へと向かった。
部室が近づくにつれて雨の音もだんだん大きくなっているように感じた。

長い廊下の先に部室はあった。厳密には出入口は外にあり、一旦外から入り直さなければならない。部室の前のトタン屋根に雨粒が跳ねている。雨樋に落ちる水滴が一定のリズムを刻む。
ショパンの曲のようだと思った。一定のリズムの雨粒は、音の粒は弱くなったり強くなったりするが、リズムだけは均一なのだ。どこかの小説で「世界は音楽で溢れている」といっていたが、それは本当のことだと思う。日常のひとつひとつが音でリズムで音楽なのだ。
雨粒の音楽に少し感心していると部室からピアノの音が鳴り始めた。ショパンの《雨だれの前奏曲》。わたしがピアノの上に置きっぱなしにしていた楽譜を誰かが弾いているのだろう。均一なリズムだった。雨垂れのようにトントントントンと鳴っていた。
  部室のドアは半分開いていた。電気は点いていない。入口からピアノまでは少し距離があり誰が弾いているか、薄暗い部屋ではわからなかった。
何となく、声はかけたくなかった。
わたしは入口の横のベンチに腰掛けて雨の降る外を眺めた。
下校していく生徒たちの声。水溜まりを踏む車のタイヤの音。屋根を叩く雨粒。どれもピアノの音の彼方で遠く小さく聞こえる。まるで前奏曲の飾りとして存在しているようだった。
いつもは来るはずの部員たちもひとりも来ていない。この部屋にはいまピアノを弾くあの子とわたしだけ。なんて甘美な時間なのだろうと思った。このピアノを独り占めできる。とても贅沢なことだった。

聴き入っているうちに曲は終わっていた。

「入らないの?」
「一緒に弾こうよ」

ピアノを弾いていたあの子はわたしが来ていることに気がついていたらしい。
よく連弾する遊びを部員同士でしていたので、その日もあの子は何気なく誘ってきた。
「きょうは聴いていたいな」
わたしはパイプ椅子を持ってきてピアノのすぐそばに座った。わたしがショパンをリクエストすると、あの子はリストの方が好きだと言ってラ・カンパネラを弾く。つぎはモルダウを弾いてよと言ってみると、それより水の戯れにしようとラヴェルを弾く。
いつもジャズばかり弾いている子だったので、クラシックもたくさん弾けることに驚いた。わたしはまたピアノの音に聴き入っていた。まるで雨の音のようなピアノの音に心が満たされていく。放課後の部室だということも忘れてただ滔々と音に溺れていく。

「晴れたね」

ピアノを聴いて1時間ほど経っただろうか。いつの間にか雨は上がっていた。わたしたちは急いで帰り支度をし、この晴れ間に帰路へと着いた。
さっきまでの音の波を自分の心の中で反芻しながら歩く。雨上がりの通学路。露で新芽がきらめく。濡れたアスファルトの匂い。涼しいような温い空気。
きっとここはあの子の音楽の世界。

◎          ◎

高校を卒業した後、あの子は音楽大学へ進み、わたしは美術の世界に入った。
それからあの子に会うことはない。けれど、あの子の音楽はあの雨の音とともにいつもわたしの中に溢れている。

きょうもまた雨が降った。
博物館の入口でわたしは『雨だれの前奏曲』を口ずさむ。