ずっと大都市に住みたかった。瀟洒な建築物に溢れ、街行く人は常に何かに追われているように急ぎ足で、欲しいものがなんでも手に入るそんな街に。

◎          ◎

集団ヒステリーのような若者の群れに、私も混ざって生活してみたかった。自分の"人材"としての価値を試し、資本主義の中で思い思いに人生の戦をする。
東京はその諸々の条件に当てはまっている上に、小さい頃からの憧れだった。

以前にも似たようなことを書いたことがあるが、ガラス張りのビルのもとで人々がそれぞれの演技をしながらドラマツルギーを美しく乗りこなして、秩序に基づきながらも混沌とした生活をしているのが喉から手が出るほど羨ましかったのである。素直にかっこいいと思い憧れた。

剣呑な欲望の街で夢や金や何かを追い求めながら己の生活も淡々と維持し、経験を積み垢の抜けた人間になっていく。

◎          ◎

ところが、私が東京の街でスーツを見に纏って先方との打ち合わせのために駅の階段を駆け上がるようなある種の青春を感じることはこの先一生ないと断言してもいいほどに、社会集団からこぼれ落ちてしまった。

もうアラサーに片足を突っ込んでいて、こわれた精神の治療をしている間にいつのまにか自分よりも年下の人が社会で一人前になっている。浦島みゆうなのだ。
個や異質を尊重するという価値観は先人により少しずつ喧伝こそされてきたものの、未だ普及には至らない。それは人である前に生物の性質として、群れを成して社会を形成し、役割を持ちつつもどこか同質になることを求めるという本能にあるのかもしれない。

私にとって大多数の教育機関や社会は、異端審問さながらの窮屈な場所だ。もうはなから認められないのは分かっているし、分かってくれる人のもとで大人しく生きれば充分ということを、時計の針が進むにつれてようやっと理解してきたところだ。他者に承認を求めることは無駄だった。

このように文章の中では色んなことを吐いて一読すると何でも言える気が強い人のように思われるかもしれないが、実際の私は身近な人の前以外だと押し黙り、思ってもないことが口から飛び出て不利になるような自己開示をしてしまう不器用な人間である。

◎          ◎

前置きが長くなってしまったが、そんな「生きにくい」私は憧れの都市とは距離を置き、緑響く地方でこれからも生きていこうと思う。
自然は不完全を受け入れてくれる。都市や人間は「進歩」や「成長」を求めるが、田舎は何も変わらずふらふらとしていたって罪さえ犯さなければ構わない。

今は実家より更に北の場所に住んでいる。
はじめは都市への積年の憧れが捨てられず、一生こんなところで暮らしていけるかとまで思ったが意外といいもんだ。
窓を開ければ背の低い針葉樹が風になびき、朝は小鳥が囀って昼はカラスがカーカーと鳴く。夜は早くに人々が寝静まり、21時にアイスを買いに出かければ人っこ一人歩いていない。

東京のような街に行くのはこれまでもこれからも用がある時だけでいい。そう思えるのは愛すべき人や仕事、趣味や何かがあるからで、勿論人生をともに歩む存在がなければ楽しいものではないだろう。娯楽も少ない。
実践こそ難しいものの、外界に幸福を求めずに自分の内面に求めることが私の幸福論だ。