昔好きだったことをやってみて見つけた、あの頃の私が確かにいた証

自分の人生について、深く考えたことがあっただろうか。そう問いかけても、答えは曖昧だった。
私は過去を振り返ることが好きではなかった。なぜなら、どれだけ思い返しても、過去を変えることはできないからだ。それならば、未来のために「今」を生きるほうが、ずっと建設的ではないか。私はそう信じ、忙しない日常を駆け抜けていた。
「過去の自分のようにはなりたくない」その一心で、ひたすら努力を続けてきた。
幼少期の私は、周囲に流されやすく、傷つきやすかった。些細な言葉に心を揺さぶられ、他人の顔色ばかりを窺っていた。
そんな自分を思い出すたびに、胸の奥から悔しさが込み上げてくる。だからこそ、私は強くなる必要があった。良い暮らしを手に入れ、社会的に成功し、誰にも傷つけられない自分になろうと決意した。そのためには、無駄なことに時間を割いている場合ではない。趣味なんて必要ない。遊びに興じる余裕があるなら、将来につながることだけを精一杯やるべきだ。そう自分に言い聞かせながら、私は走り続けた。
しかし、ある日突然、その信念が崩れ去る出来事が起こった。「私は何のために努力しているのだろう?」そう考えた瞬間、長い間心の奥で張り詰めていた糸が、プツリと切れた気がした。
これまで目指してきた未来は、本当に自分が望んだものだったのか? 自分を奮い立たせるために必死に走り続けてきたが、その先に何があるのか、まったく見えなくなってしまった。
ふと、幼少期の記憶が頭をよぎる。いじめを受けた経験。家族との複雑な関係。心を閉ざし、涙をこらえた夜。どれも思い出したくないことばかりだった。それなのに、なぜかその記憶が次々と蘇ってくる。まるで、忘れないでほしいと訴えるかのように。
「過去に縛られたくない」 そう思っていたはずなのに、私はずっと過去に囚われ続けていたのかもしれない。私は、過去の自分を否定することで、強くなれたつもりでいた。でも、それはただの思い込みだった。
過去を切り捨てることは、決して私を強くするわけではない。むしろ、過去を受け入れなければ、本当の意味で前には進めないのではないか。私は過去から解放されるために、いくつかのことを試してみた。そのひとつが、昔好きだったことをやってみることだった。
久しぶりに絵を描いた。幼い頃、私は紙とクレヨンさえあれば、何時間でも夢中になれた。色を塗ることに意味なんて必要なかった。ただ、心のままに筆を走らせるのが楽しかった。
だが、大人になるにつれ、私は「絵を描くことに何の意味があるのか」と考えてしまい、いつの間にかやめていた。
しかし、久しぶりに筆を握ってみると、不思議な感覚が蘇った。何かを表現する喜び。思い通りにならないもどかしさ。一筆ごとに生まれる、新しい自分。それらすべてが、かつての私が確かにそこにいた証のように感じられた。
また、昔好きだった本を読み返してみた。ページをめくるたび、幼い頃の記憶が鮮やかに蘇る。当時の私は、この本のどこに感動し、どんなことを考えていたのだろう。言葉を追うたびに、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
そして、そのたびに気づかされる。あの頃の私は、たしかにそこに存在していたのだ、と。
過去を思い出すことは、決して後退ではない。むしろ、自分が何を大切にしてきたのかを知る手がかりになるのではないか。
過去を切り離して生きようとするのではなく、過去と向き合い、過去とともに生きる。それが、私にとって本当に必要なことだったのかもしれない。
すると、少しずつ心が軽くなっていった。過去を否定し続けるのではなく、受け入れることができる気がした。過去は変えられない。でも、それをどう捉えるかは、自分次第なのだ。
「過去に囚われていた私から卒業しよう」今、ようやくその言葉を、心から言える気がする。
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